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かりそめ(40)
「カズヤさん……」
「ん?」
この五年、二人きりで暮らしてきたけれど、僕はカズヤさんの良い息子にはなれなかったと思う。
素直じゃないし、生意気で、言葉数も少なくて。きっと扱いにくい子供だった。
そんな僕に、カズヤさんは根気強く話しかけ、時には厳しく、時には優しく、愛情という大きな器で包んでくれて、ゆっくりと僕の縺れた心を解してくれた。
それなのに僕は、この家を出た。好きな人の傍にいるために。
カズヤさんと別れた奥さんの間には、子供がいなかった。だから僕を引き取りたいと、最初に会った時は、そう言っていた。
本当なら……僕が普通に結婚して、家庭をつくり、子供が生まれて……。きっとカズヤさんは、そんな未来を夢見ていたと思う。
でも、僕の教授へのこの気持ちは、今だけのものじゃない。たったひと時、ほんの一瞬、そんな言葉で終わるような愛じゃない。
これを言ったら悲しむかもしれない。怒るかもしれない。反対するかもしれない。
だけど……17歳のあの夏の終わりから、ずっとこんな僕に寄り添ってきてくれたカズヤさんだからこそ、誤魔化したり隠したりしたくない。カズヤさんに信じてもらいたい。
――絶対に幸せになってみせるから。
「僕は、このままずっと、教授と一緒に生きていきたいと思ってる……」
「うん」
カズヤさんは、驚くこともなく、柔らかく微笑んで頷いた。
「……反対しないの?」
首を傾げた僕を見て、カズヤさんは白い歯を見せてにっこりと笑う。
「どうして? 反対する理由なんかないじゃない」
「だって……カズヤさん、もう孫を抱ける未来は無いんだよ?」
僕の返した言葉に、カズヤさんは声をあげて笑い出した。
「……あはは……、そんなこと、考えてないよ。孫が生まれることになったら、それはそれで嬉しいかもしれないけど、だからって絶対孫を抱きたいとか思ってないよ」
カズヤさんは暫く笑い続けていた。
――そんなこと心配してたの? 馬鹿だな伊織は……と言いながら。
「……どうしようもなく惹かれて、ずっと一緒にいたい。そんな風に思える人と出会って、相手も同じ想いなら、絶対にその人の傍から離れてはいけないよ」
――一度手を離してしまったら、どんなに想っても、二度と届かなくなってしまうこともあるから……。
僕に聞かせてくれた言葉は、カズヤさんの忘れられない後悔だ。
失くしてしまった恋人。どんなに手を伸ばしても届かない人。
「今の僕の望みは、伊織が世界で一番幸せになることだからね」
そう言って、カズヤさんは目を細め、暖かい笑みを僕に向けてくれる。父親の慈愛に満ちた眼差しで。
僕は、一度目を閉じて小さく息をひとつ吐く。そしてゆっくりと瞼を上げてカズヤさんと目を合わせた。
今まで一度も言ったことのない言葉を、カズヤさんに伝えたくて。少しだけ胸の鼓動が早くなる。
「ありがとう……お父さん」
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