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かりそめ(41)

 ――僕には二人の父親がいる。  ひとりは、僕が生まれてからずっと傍にいてくれた人。  そしてもうひとりは、僕が生まれる前に母の恋人だった人。  どちらも、僕にとってかけがえのない父親だ。僕には二人とも必要だった。どちらが欠けても、今の僕はない。  二人の母さんへの愛は、それぞれ違う形だったけれど、たった一人の女性だけを愛した心は、確かに僕に伝わってきた。  僕は今、愛する人に『愛してる』と言える幸せを噛みしめていた。  カズヤさんは、瞠目したまま固まっている。その瞳を覗き込むと、今度は瞬きを繰り返した。 「……伊織……、もう一回言ってくれないか?」 「……何、を?」  いや、分かってる。本当は分かってるけど、こっちだって照れくさいんだ。 「言ってよ、ぼくのこと、今呼んでくれただろ?」 「やだよ。さっきのは特別だから。もう二度と言わない」  ふいっと、顔を背けた僕の肩を両手で掴み、カズヤさんは無理やり目を合わせてくる。 「なんで?!」  あー、もう、しつこい。こんな所で言うんじゃなかった。こうなることは予想できたから、今まで口にすることができなかったんだ。  中学一年の夏、突然目の前に現れたカズヤさんに、僕はずっと長い間反発していた。高校二年の夏の終わりから、一緒に暮らすことになったのに、それでも言えなかった。  ――だけど本当は、とうの昔に認めていた。  きっとそのことは、この人も気が付いていたと思う。 「わざわざ言わなくても分かるでしょう? 僕にとってはカズヤさんも、かけがえのない父親なんだから!」  一度は口に出してしまったけれど、“お父さん”ともう一度言うのが照れくさくて、なんとか別の言葉を選んだつもりだったのに、それが逆効果になってしまったことに、すぐには気付けなかった。 「伊織ぃ~」  カズヤさんは目に涙をいっぱい溜めて、情けない声を出しながら力いっぱい僕を抱きしめてくる。 「ちょ……っと、やめてよ、こんな所で! 恥ずかしい」  浜辺にいたカップルが後ろを振り向いてるし、さっきソフトクリームを買った屋台のお兄さんも、客からお金を受け取りながら、こちらを見てる。  だけど……、 「だって……嬉しいんだから、仕方ないだろ?」  そう言いながら僕の肩に顔を埋めてグズグズと鼻をすすって泣いている、この大人の男を、どうにも突き放せない。僕は小さく溜息を零し、その背中を宥めるようにポンポンと叩いた。  何気なく見上げた夜空は、さっきまで薄くかかっていた雲が途切れ、満月を過ぎた少し欠けた月が青白い光を放っていた。  花火の夜に、教授の家の広縁で見たあの月と、よく似た形だった。

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