102 / 138

かりそめ(44)

「……タキさん、なんて?」 「僕の住んでいたあの家、売りに出すことにしたんだって……」  ――そうなんだ……と、呟くようにカズヤさんは言った。  僕が岬の家にきてすぐの頃、鈴宮の父もタキさんと再婚してあの家を出た。いつかはこうなる事は分かっていたけれど、生まれ育った家が誰か別の人の物になるのは、少し寂しい気がしてしまう。 「伊織は、あれから鈴宮さんに会ってないんだよね?」 「……うん」 「会いにいかないのかい?」 「……うん、そのうちね……」  僕は、あやふやな返事をしながら便箋を封筒の中に戻し、次の郵便物を手に取って、この話はそこで打ち切った。  僕は、タキさんが時々くれる手紙に、返事を書いたことがない。  タキさんからの手紙にはいつも、鈴宮の父は口には出さないけれど、僕に会いたがってると、ひとこと添えられている。 (――会いたくないわけではないけれど……)  でも今はまだ、そんなに簡単に会いたいという気持ちになれなかった。  自分の中ではもう吹っ切れている。鈴宮の父に対する気持ちは、今ならはっきりと父への愛情だと言える。 (――だけど……父さんは……)  ――『……今、ここを開けたら、私は今度こそお前を……』  鈴宮の家を出る時、父はそう言って最後まで書斎のドアを開けてくれず、会うことができなかった。  あの時はまだ、僕も自信がなかった。  会ってしまえば、また見えない鎖がお互いを雁字搦めにしてしまいそうで怖かった。  だけど、愛する人が傍にいてくれる今なら……会えるだろうか。  父と子として。  幼い頃の、あの日々のように。父の大切な本当の子供として。  鈴宮の父が、僕と同じように思ってくれる日がきたならば……そんな時がくるのなら……会いたいと思う。  今、鈴宮の父の傍にはタキさんがいてくれる。縺れた鎖はきっと時が解いてくれる。  あともう少しだけ、時間が必要な気がしていた。 「……伊織」  カズヤさんに呼ばれて、なんとなく眺めていただけの郵便物から視線を上にあげる。 「いつでもいいから、雨宮教授に一度会わせてもらえるかな」  目の前のカズヤさんは、優しい眼差しを注いでくれる。慈愛に満ちた父親の表情だった。 「うん……。僕も、カズヤさんに会ってもらいたいと思ってたから、先生にも言ってみる」  僕の返した言葉に、カズヤさんは安心したような笑みを浮かべ、「楽しみにしてるね」とだけ言って、また新聞に視線を落とした。

ともだちにシェアしよう!