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かりそめ(44)
「……タキさん、なんて?」
「僕の住んでいたあの家、売りに出すことにしたんだって……」
――そうなんだ……と、呟くようにカズヤさんは言った。
僕が岬の家にきてすぐの頃、鈴宮の父もタキさんと再婚してあの家を出た。いつかはこうなる事は分かっていたけれど、生まれ育った家が誰か別の人の物になるのは、少し寂しい気がしてしまう。
「伊織は、あれから鈴宮さんに会ってないんだよね?」
「……うん」
「会いにいかないのかい?」
「……うん、そのうちね……」
僕は、あやふやな返事をしながら便箋を封筒の中に戻し、次の郵便物を手に取って、この話はそこで打ち切った。
僕は、タキさんが時々くれる手紙に、返事を書いたことがない。
タキさんからの手紙にはいつも、鈴宮の父は口には出さないけれど、僕に会いたがってると、ひとこと添えられている。
(――会いたくないわけではないけれど……)
でも今はまだ、そんなに簡単に会いたいという気持ちになれなかった。
自分の中ではもう吹っ切れている。鈴宮の父に対する気持ちは、今ならはっきりと父への愛情だと言える。
(――だけど……父さんは……)
――『……今、ここを開けたら、私は今度こそお前を……』
鈴宮の家を出る時、父はそう言って最後まで書斎のドアを開けてくれず、会うことができなかった。
あの時はまだ、僕も自信がなかった。
会ってしまえば、また見えない鎖がお互いを雁字搦めにしてしまいそうで怖かった。
だけど、愛する人が傍にいてくれる今なら……会えるだろうか。
父と子として。
幼い頃の、あの日々のように。父の大切な本当の子供として。
鈴宮の父が、僕と同じように思ってくれる日がきたならば……そんな時がくるのなら……会いたいと思う。
今、鈴宮の父の傍にはタキさんがいてくれる。縺れた鎖はきっと時が解いてくれる。
あともう少しだけ、時間が必要な気がしていた。
「……伊織」
カズヤさんに呼ばれて、なんとなく眺めていただけの郵便物から視線を上にあげる。
「いつでもいいから、雨宮教授に一度会わせてもらえるかな」
目の前のカズヤさんは、優しい眼差しを注いでくれる。慈愛に満ちた父親の表情だった。
「うん……。僕も、カズヤさんに会ってもらいたいと思ってたから、先生にも言ってみる」
僕の返した言葉に、カズヤさんは安心したような笑みを浮かべ、「楽しみにしてるね」とだけ言って、また新聞に視線を落とした。
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