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かりそめ(48)

「いえ……大丈夫ですから」  自分の顔が熱く火照っていくのを感じて、俯き気味に首を横に振る。  ――ひと目だけでも顔を見たくてね。  そんな風に思ってもらえる日がくるなんて……。 「……僕も……早く先生に逢いたかったから……嬉しい……」  面と向かってこんなことを言うのは何だか照れくさい。俯いたまま応えた声は小さくて、消え入るように足元に落ちていく。  不意に、頬に教授の指の背が触れる。形の良い硬い節の部分でそっと撫でられて顔を上げると、恋人の甘い眼差しが降り注ぎ、僕の何もかもが蕩けてしまう。  綺麗な輪郭の唇に、視線が奪われて離れられなくなる。  閑静な住宅街の、しかも実家の真ん前で、  ――キスしたい。  ――触れられたい。  ――抱きしめられたい。  ――触りたい。  ――ひとつに溶け合いたい。  そんな不埒なことを考えてしまう。 「……一緒に帰るかい?」 「はい」  教授の問いに迷うことなく答えると、どちらからともなく手が触れて、ゆっくりと指を絡め合い、しっかりと繋ぐ。  少し離れた所に宅間さんが乗ってきた役員車が見えた。運転手に見られてるとか、近所の人に見られるかもしれないとか、一瞬頭の隅を過るけど、もう離れられなかった。 「……荷物……取ってこなくちゃ……」  口ではそう言ったけれど、名残惜しくて離れられそうにない。 「……伊織」  離れようとするのを拒むように、繋いでいる教授の手に力が籠る。 「お父さんにご挨拶したいのだけど、お時間あるかな」 「え?」  教授の突然の申し出に、心臓がドキリと跳ねた。 「でも、もう仕事で出掛けるところなら、ご迷惑になるね。明日までの予定だったのに、突然伊織を連れて帰ることも一言お詫びしたかったのだけど……」  僕は、教授の言葉を聞きながら、考えを巡らせていた。  カズヤさんは、もうすぐ出かけないといけない時間だけど……。 ――『いつでもいいから、雨宮教授に一度会わせてもらえるかな』  カズヤさんがそう言ってたのは、ついさっきの事だった。この機会に少しでも顔を合わせることができたら、カズヤさんも安心してくれるんじゃないかと思う。 「いえ、大丈夫だと思います。時間はあまりないかもしれないですけど、父も先生に会いたがってたから……」

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