109 / 138

かりそめ(51)

 しっかりと頭を下げて挨拶をする教授に、カズヤさんも姿勢を正して向き直る。  もうその時には、さっきまでの慌てふためいた表情は消えていた。 「はじめまして。伊織の父、岬一哉です。雨宮教授には一度お目にかかりたいと思っておりました」  本当に嬉しそうににっこりと笑みを浮かべたカズヤさんに対して、教授は少し緊張した面持ちでまた頭を下げる。 「お出かけのところ本当に申し訳ありません。突然伊織くんと一緒に暮らし始めたのに、まだ一度もご挨拶をしていなかったので、ご迷惑かと思いましたが、一言だけでもとお邪魔させていただきました」 「いやいや、こちらも伊織がお世話になっているのに、一度ご挨拶に伺わなければと思っていたのですよ。なので今日こうしてお会いできて嬉しいです」  自分はもう出かけるけれど、どうぞゆっくりして行って下さいと言葉を続けたカズヤさんに、教授はまた頭を下げた。 「伊織くんは、明日までこちらにいる予定だったのですが、私がどうしても逢いたくなって勝手に来てしまいました。このまま一緒に帰ることをお許しいただけますでしょうか」  この言葉にカズヤさんは、頭を下げている教授をじっと見つめて沈黙してしまう。 「……カズヤさん……」  不安に思って、一歩前に出た僕をカズヤさんは片手をあげて止める。 「雨宮さん、頭を上げてください」  顔を上げた教授とカズヤさんの視線が静かに絡み合い、傍で見ている僕の方がなんだか緊張してしまう。 「ぼくの願いは、たった一つだけなのですよ」  真剣な眼差しのカズヤさんの声が、しんと静まり返った部屋に響いた。  日は西に傾いて、もうこの部屋にはきつい日差しは入ってこないのに、カズヤさんが起きてきた時に点けたエアコンがまだ動いていて、ルーバーの風向きを変える音が微かに聞こえてくる。 「何か、分かりますか?」  教授は少し目線を下に落とし、「いえ……」と首を小さく横に振る。  僕は思わず、ごくりと喉を鳴らしてしまった。 「それは、伊織が世界で一番幸せになることです」  視線を上げた教授に、カズヤさんが穏やかな笑みを向ける。 「雨宮さん……貴方は、伊織と一緒に幸せになってくれますか?」  カズヤさんの問いに、教授の漆黒の瞳が柔らかな光を灯した。 「はい。必ず世界で一番幸せになってみせます。伊織と二人で」

ともだちにシェアしよう!