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かりそめ(51)
しっかりと頭を下げて挨拶をする教授に、カズヤさんも姿勢を正して向き直る。
もうその時には、さっきまでの慌てふためいた表情は消えていた。
「はじめまして。伊織の父、岬一哉です。雨宮教授には一度お目にかかりたいと思っておりました」
本当に嬉しそうににっこりと笑みを浮かべたカズヤさんに対して、教授は少し緊張した面持ちでまた頭を下げる。
「お出かけのところ本当に申し訳ありません。突然伊織くんと一緒に暮らし始めたのに、まだ一度もご挨拶をしていなかったので、ご迷惑かと思いましたが、一言だけでもとお邪魔させていただきました」
「いやいや、こちらも伊織がお世話になっているのに、一度ご挨拶に伺わなければと思っていたのですよ。なので今日こうしてお会いできて嬉しいです」
自分はもう出かけるけれど、どうぞゆっくりして行って下さいと言葉を続けたカズヤさんに、教授はまた頭を下げた。
「伊織くんは、明日までこちらにいる予定だったのですが、私がどうしても逢いたくなって勝手に来てしまいました。このまま一緒に帰ることをお許しいただけますでしょうか」
この言葉にカズヤさんは、頭を下げている教授をじっと見つめて沈黙してしまう。
「……カズヤさん……」
不安に思って、一歩前に出た僕をカズヤさんは片手をあげて止める。
「雨宮さん、頭を上げてください」
顔を上げた教授とカズヤさんの視線が静かに絡み合い、傍で見ている僕の方がなんだか緊張してしまう。
「ぼくの願いは、たった一つだけなのですよ」
真剣な眼差しのカズヤさんの声が、しんと静まり返った部屋に響いた。
日は西に傾いて、もうこの部屋にはきつい日差しは入ってこないのに、カズヤさんが起きてきた時に点けたエアコンがまだ動いていて、ルーバーの風向きを変える音が微かに聞こえてくる。
「何か、分かりますか?」
教授は少し目線を下に落とし、「いえ……」と首を小さく横に振る。
僕は思わず、ごくりと喉を鳴らしてしまった。
「それは、伊織が世界で一番幸せになることです」
視線を上げた教授に、カズヤさんが穏やかな笑みを向ける。
「雨宮さん……貴方は、伊織と一緒に幸せになってくれますか?」
カズヤさんの問いに、教授の漆黒の瞳が柔らかな光を灯した。
「はい。必ず世界で一番幸せになってみせます。伊織と二人で」
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