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かりそめ(53)
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――帰ろうか、俺たちの家に。
それはきっと、教授の口から何気なく自然に出てきた言葉だった。そのことがとても嬉しくて、心の中で何度も繰り返し呟いた。
――教授と僕の、二人の家。
古い木造家屋の家は、僕の生まれ育った家に少し似ている。
カラカラと音を立てる引き戸を開けると、ひんやりとした空気と、微かに漂う木の匂いが出迎えてくれる。
高めの段差の上がり框。
板張りの廊下は古くて歩く度に軋んだ音を立てるけれど、手入れが行き届いていて上品な艶がある。
柔らかい照明や、最小限に置かれたアンティークな家具が、落ち着いた空間を作っている。
教授と暮らし始めて、まだたったの一ヵ月しか経っていないのに、ここに帰って来ると何故だかホッとして心が落ち着く。
ここはもう、確かに教授と僕の家なんだと改めて思えた。
だけど、一日ぶりの家は昨日までとは少し違っていて、居間に入ると直ぐに、僕はそれに気が付いた。
壁に掛けてあったのは、教授が描いたあの岬の風景の油絵だ。
暗い夜の海を照らす、灯台の光。
海へ伸びる険しい傾斜地形の崖。
荒れた暗い青の海。
教授の記憶の中の景色。
教授は、昨日この場所に眠る潤さんに逢いに行ったんだ。
個展の最終日の夜、『Aquarius』の絵を白く塗り潰そうとしていた教授が、ここにこの絵を飾った理由を僕には何となくだけど分かる気がしていた。
居間の入口で立ち止まっていた僕の手を、隣に立った教授がそっと握ってくれる。
教授は、僕の手を柔らかく引きながら、居間の向こうの四畳半の続き間の襖を開けた。
「……え……これは?」
そこには昨日までは無かった小さな仏壇が置いてあった。
「金沢で見つけて買ってきたんだ」
――本尊は置かず、御位牌もなく、略式だけれど。と、教授は静かに言葉を続けた。
僕は、仏壇の手前に置いてある写真に、視線が釘付けになる。
写っているのは、どこかの高校の制服を着た会ったことのない少年だった。
僕は小さな声で、無意識に声を出していた。
「……潤さん……」
柔らかそうな、少し癖のある髪の色は教授とよく似た艶のある黒。瞳の色も教授に似てる。
だけど確かに全体的な雰囲気は、不思議なくらい僕によく似ていた。
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