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かりそめ(54)
「潤の写真を探したいというのもあって、実家に寄ったのだけど、帰ってみたら数年ぶりに父が帰ってきていてね。その写真は父が潤の部屋の整理をしていて、出てきた物の中の一枚だそうだよ」
「え? 先生のお父さん?」
話の中にさり気なく出てきた“父”という言葉に、なんとなく引っかかってしまった。
――『潤は、母の愛人と身体の関係があったんだ』
教授からそう聞いていたから。教授と潤さんのお父さんは、亡くなったか離婚していたかのどちらかだと、勝手に思い込んでいた。
僕の疑問を察したのか、教授は「俺の家も、結構複雑だと前に言っただろう?」と言って、苦く笑う。
「父は日本画の画家なんだけど、昔から放浪癖があってね。日本中をあちこち巡り、風景画を描いていると言えば、聞こえは良いかもしれないけれど、俺も潤も、あの人と一緒に暮らした記憶はほとんど無いんだ」
(――え?)
驚きすぎて言葉を返せない僕の頭に、教授はポンと手を載せて「びっくりした?」と微笑んで、言葉を続ける。
「そんなだから、母が愛人をつくっても仕方のない状況だったんだけどね……」
潤が亡くなった後、両親は離婚して母は家を出て行ったのだと、教授は教えてくれた。
「俺も、あれから家には殆ど帰らなかったから、父には法要の時に会う程度だったんだけど、まさか今あの家で暮らしているとは思わなかった」
――――だから家の空気の入れ替えや、掃除もする必要なくてね。と、教授は笑いを零し、目の前の潤さんの写真を見つめた。
「実家にはちゃんと仏壇があるんだけど、これをここに置いたのは、過去の過ちや、潤とのことを憶えておきたかったから……」
――故人の死を受け入れ、故人が確かに存在していたことを忘れないように。
そう言って、教授は僕に視線を合わせてくる。
「伊織が、俺に教えてくれたんだよ」
「え? 僕?」
どういう意味なのか、すぐには分からなくて首を傾げると、ふわりと肩を抱き寄せられた。
「俺が……潤のことを忘れたくて、忘れないといけないと言って、“Aquarius”を塗りつぶそうとした時に……」
(――ああ……あの時……僕はなんて言っただろう)
教授があの絵を塗りつぶそうとするのを止めたくて、必死だった。
――『そんなこと、させない!』
だって、忘れるなんて哀しすぎる。そう思ったから……。
「潤のこと、忘れたりしたら駄目だって。潤は、俺の傍に確かに居たのに、その存在を忘れるなんて潤が可哀想だって……。伊織は、あの時そう言ってくれたんだよ」
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