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かりそめ(55)

 ――そうだ……。あの時、教授は泣いていた。ぽろぽろと大粒の涙が後から後から零れ落ちて……。  僕が教授の涙を見たのは、それが初めてだった。  過ぎた日の失くした恋を、愛した人のことを、忘れるのは哀しくて辛い。忘れなければと、思えば思うほど辛くなる。  あの絵を塗りつぶして忘れようとした教授もきっと辛かったんだ。だから僕の言葉に、抑えていた気持ちが溢れ出したのだろう。  無理に忘れなくていい、憶えていてほしい、潤さんのことを。  あの時、必死に訴えた言葉は、ちゃんと教授に届いていた。 「……良かった」  教授が、あの絵を塗りつぶそうとするのを止めることができて本当に良かった。だから今、こうして教授は穏やかな表情で潤さんの前にいる。 「だけど……記憶って不確かなものだね……」  不意に教授が、潤さんの写真を見つめながら呟くように言葉を紡ぐ。 「この写真を見ていると、伊織と潤は、そんなに言うほどそっくりじゃないと思うんだ」 「……え?」  僕は思わず、潤さんの写真に顔を近づけて首を傾げた。 「……そうかな……?」  教授は「うん」と頷いて、「潤の写真は一枚も手元に無かったから、こうしてゆっくり見るのは久しぶりなんだ……」と言う。  髪の色や瞳の色は違うけど。どう言えばいいのか分からないけれど、全体的な雰囲気や背格好は似ていると自分でも思う。 「初めて伊織を見た時、本当にどこかで生きていた潤が逢いに来てくれたのかと錯覚するほど似てると思ったけど……」  そう言って、教授は苦笑を零した。 「あのガニュメーデースは、潤よりも伊織の要素が強いような気がする」 「えぇ?……まさか、そんなことは……」  僕も思わず苦笑を零したけれど……。 (――あ……もしかして……)  ふと、朔さんの言っていたことが頭を過る。  ――――『先生もたぶん意識して描いたわけじゃないとは思う。それでもあの絵の中には、微かに岬くんの存在も感じるんだよね……オレは』  朔さんが言ってたように、本当にあの絵の中に僕の存在が僅かでもあるのだとしたら……。 「先生は……どうしてあの絵を描いたんですか?」  僕の知る限り、今までの作品の中で、潤さんを描いたものは見たことがない。  そのことを思い出して、朔さんと話していた時に浮かんだ疑問をそのまま口に出してしまっていた。  僕の問いに、教授は少し驚いたような表情を浮かべ、そしてどこか遠くを見るような目をして「あれは……」と、口を開く。

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