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かりそめ(56)
「あの絵を描こうと思ったのは、伊織の存在が俺の中で大きくなってきたから……かもしれない」
「え?」
教授は、「ちょっとこっちにおいで」と言いながらゆっくりと腰を上げ、隣の居間へと向かう。どうしたんだろうと思いながら、僕もその後に続いた。
居間に置いてあるロータイプのブックシェルフには、読みかけの本や雑誌が並べてある。その中から教授はF4サイズのスケッチブックを取り出して座卓の上に置いた。
「本当は、あまり見せたくなかったんだけど……」
そう言いながら、教授は照れくさそうに笑う。
「……見ていいんですか?」
「ああ、いいよ」
僕は、教授の隣に座り、座卓の上のスケッチブックに手を伸ばした。
麻表紙を開いて、そこに描かれていた人物のデッサンに、僕は思わず息を呑む。
「え、これ……」
次のページも、その次も、描かれているのは全部同じ人物だった。
まだ入学したての頃、1年の実習室で課題の絵を描いている僕。
図書館の本棚の高い位置に置いてある本を取ろうと、つま先立ちで必死に手を伸ばしている僕。
学食の窓際のテーブルは日当たりがよくて、寒い冬の空き時間には、いつもそこで居眠りをしていた僕。
そのスケッチブックには、最初から最後まで僕の大学での姿が描かれていた。
「ちょっとストーカーみたいで、引くだろう?」
教授は、「はは……」と声に出して自嘲するように笑う。
「そ、そんな……。引いたりしないけど……どうして僕なんかを……」
――いつの頃からだろう……。気が付けばどこからか誰かの視線を感じて、顔を上げれば、そこにはいつも教授がいた。
実習室で、図書館で、学食でも。
偶然と言うには、あまりにも多過ぎて……――
あれは、僕じゃなく、潤さんを見ていたのだと思っていた。
だけど、ここに描かれているのは潤さんじゃない。確かに僕だ。
「潤に似ている伊織がどうしても気になって、いつも目で追っていたと言っただろう?」
頭では分かっていても、どうしても潤さんと僕を重ねてしまうと、教授はそう言っていた。
僕はスケッチブックに描かれた絵に視線を落としたまま、小さく頷く。
「だから、君は潤じゃないと自分に言い聞かせるために、描いて、描いて、描き続けた。二階のアトリエにも君を描いたスケッチブックが何冊もある」
「え……そんなに?」
驚いて隣を見上げると、頬を赤く染めて教授は小さく咳払いをした。そして僕から僅かに視線を逸らす。
「……すまない」
そんな教授の仕草が、なんだか堪らなく愛おしくて、僕は思わず口元を綻ばせた。
「モデル料、もらわなくちゃ……」
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