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かりそめ(57)
「はは……本当にそうだね」
教授は笑いながら、僕の顔を覗き込む。
それから急に真面目な顔になって、「いくら払おうかな」なんて訊いてくる。
「もう! 冗談ですよ」
そう言って隣に座っている教授の肩にコトンと頭を預けると、頭の上でクスッと笑いが落ちてくる。
僕も同じように笑いながら、目の前のスケッチブックにもう一度視線を落とした。
「こんなにたくさん描いて……それで僕と潤さんは違うって分かりましたか?」
「……いや……」
肩に凭れている僕の頭を、大きな手が何度も優しく撫でてくれる。
「描いているうちに、だんだん曖昧になってきたんだ」
「え?」
予想していた答えとは違っていて、僕は驚いて教授を見上げた。
「そのうち俺の中で潤の存在が薄れてきて、代わりに伊織の存在が大きくなってきた」
――それで、潤を描こうと思ったんだ……と、教授は言葉を続ける。
「その頃の俺は、まだ潤が死んだことを認めたくなかったからね……」
そう言って、苦い笑みを浮かべた。
「潤の存在を消すわけにはいかなかった」
きっとどこかで生きている――そう思いたくて。
「海に沈んだ潤の身体は、青い水の色に同化しているだけで消えずに存在している。そう思いたかったのかもしれない」
僕は、あの時個展会場で見た『Aquarius』を頭の中で思い浮かべた。
――水瓶を手にした少年は、身体に纏い付く青い水の色に溶けて消えてしまいそうに儚い。
僕に似ているけれど、僕じゃない。そう感じたけれど。
「あの絵は、確かに潤の存在を憶えておきたくて描いたものだ。だけど伊織が入学して三年間、俺は毎日のように君を描いていたんだ。だから……あの絵の中に伊織の存在があったとしても不思議じゃない」
――心の大半を占め始めていた君の存在を、無意識に描いていた。
あの絵の中には、教授の言う無意識が隠されているのかもしれない。
――ある意味、朔さんの言っていたことは当たってたんだ。
ガニュメーデースは潤さんであり、僕でもある。
それは、久しぶりに潤さんの写真を見るまでは、教授でさえも気付かなかったこと。
だからあの日……僕が初めて『Aquarius』を個展会場で見た、あの雨の日。教授はあんなに混乱していたんだ。
――だから、僕に潤さんを重ねて抱いて……そして苦しんだ。
『愛してます、兄さん』
僕の、潤さんを真似たあの言葉で夢から醒めるまでは。
「だけど、君は潤じゃない」
教授は、花火の夜に言ってくれた言葉をもう一度くれる。
――――『君は、潤じゃない』
「……先生……」
その言葉の響きが、宝物のように胸に沁みてくる。
教授は、そんな僕を包むように抱きしめて、触れるだけの優しい口づけをくれる。
「愛してるよ、伊織」
「僕も、僕も先生を愛してる」
22年生きてきて、今が一番幸せで、心がどんどん満たされていくのを愛する人の腕の中で感じていた。
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