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かりそめ(70)
*
「伊織、時間は大丈夫か?」
教授の声がドライヤーの音に混じる。
「うん、大丈夫」
二人でシャワーを浴びた後、今はお互いTシャツ一枚に下着を着けているだけの姿で、教授が僕の髪をドライヤーで乾かしてくれている。
少し曇った鏡を指で擦ると、首元に小さな赤い痕がついているのが見える。Tシャツでは隠せないけど上にシャツを羽織れば大丈夫かな……。だけど今日はたぶん道着は着れない。
「気になるなら、今日は練習休んだらどうだ?」
鏡の中で、僕の後ろに立っている教授が片頬を上げて、いたずらっぽく笑う。
「休みませんよ。ジャージ着るから大丈夫」
教授は、もしかしたらわざとキスマークをつけたのかもしれない。
やっぱり僕を道場に行かせたくないのかな……。理由は分かってるんだけど。
「そう言えば……先生、今日は何か用事があったんじゃないですか?」
鏡の中の教授に視線を合わせて訊ねると、「呼び方が戻ってる」と言って笑う。
「だって……。せめて大学を卒業するまでは、外で間違って名前で呼んでしまったら困るでしょう?」
だから、二人きりの時だけ名前で呼ぼうと思ってたんだけど、つい、いつもの癖で“先生”と呼んでしまった。
教授は「そうか……」と呟いて、少し残念そうに苦笑を浮かべてる。
「それで……? 今日は午前中に何か用事があったんじゃないですか? 昨日、起こしてくれって言ってたでしょう?」
「ああ……」と、短い声で返しながら、教授はドライヤーを僕の手に渡してくる。
今度は、僕が教授の髪を乾かしてあげる。
身長差があるから、ちょっとやりにくいけれど、手を伸ばしてサラサラの黒髪を指で梳きながら、熱風をあてていく。
「伊織を道場まで、車で送って行こうと思って……」
そう言って、鏡の中で教授が僅かに視線を逸らした。
「……え?」
沖縄空手の道場は、ここからは一駅だけで、今まで教授が送ってくれたりしたことは無かったんだけど……。
いつもは、教授はもう出かけていたりして、今日はたまたま家に居たから、大学に行くついでにってことかな? でも、大学はここから歩いてすぐのところだから、“ついで”っていうのも、ちょっと変な気がする。
それに、道場は駅からは歩くと少し遠いけれど、今日はその駅まで朔さんが車で迎えに来てくれる予定だったから…………。
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