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かりそめ(73)

 ******  ――『やっぱり浴室をリフォームしようかな』  あの時、聞き流してしまった言葉が、実は教授が本気で考えている事だったと知ったのは、それから数日経ったある日の夕方だった。 「ただいま」  家に帰ると、一足先に戻っていた教授が、居間の座卓に何やら沢山のカタログを広げていた。 「おかえり」 「……どうしたんですか? それ……」 「ああ、浴室のリフォームを考えていてね」  よく見ると、どれも浴室のカタログだった。複数のメーカーのものが、座卓に所狭しと広げられていて、気になるページには、カラフルな付箋が貼られている。 「リフォーム……?」 「あの浴槽も、もう古いしね。狭いから……」  そこで言葉を区切り、教授は視線を僕から逸らし、「……二人で一緒に浸かれないしね」と、呟くような声で、そう続けた。 「……え?」  僕は、思わず目を瞠る。  教授が、そんなことを考えてくれていたなんて……。  ――嬉しい。  もちろん、最初に浮かんだ言葉はそれだった。  教授と一緒に湯船に浸かる……。想像すると、ちょっと恥ずかしいけど、そんな風にゆっくりとした時間を二人で過ごしてみたいと思う。  だけど……。  この家の浴槽は、四隅を銅の金物と釘で留めた、シンプルな構造のコンパクトな正方形のヒノキ風呂。確かに年季の入った浴槽で、成人男性なら脚を折りたたんでやっと入れるくらいの大きさだ。  でも古くても、手入れは行き届いていて目立った汚れもないし、何よりも浴室内にヒノキの香りが満ちていて熱い夏でも長湯をしてしまうくらいに心地良い。  あのヒノキ風呂をなくしてしまうのは、やっぱり寂しい。 「浴槽には一緒に浸かれないけど、洗い場は広いから今でもシャワーだけなら一緒に浴びたりしてるし……浴槽を大きくしたら、洗い場が狭くなりませんか?」 「大きなバスタブにして、無駄に広い洗面所の一部を削って浴室を全体的に広げたら、もっと使いやすくなるとも思うんだ」  なんとか思いとどまらせようとする僕と、リフォーム後の浴室を思い描く教授。 「僕、あのお風呂好きですよ」  ――俺も好きなんだけどね……。と、教授が苦笑を零す。  “あのお風呂が好き”  そこだけ、二人の意見が一致した。  やっぱり教授も、ちょっと寂しいんじゃないかな。  この家は、二十二歳で既に個展で作品を完売させていた教授が、潤さんと暮らすために買った古い物件だった。  北陸にある実家によく似た間取りが気に入ったのだと、前に話してくれたことがある。  ――『潤も、きっと気に入ってくれるだろうと思ったんだ』

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