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Aquarius(2)

 ドアの前に立ち、深呼吸をしてから控えめにノックする。  しん……と、静まり返った部屋の中からは応答がなくて、少しだけ気持ちが焦る。  だけど気配は感じる。この中に僕が想いを寄せる最愛の人が確かに居る。だって、彼の微かな動きが空気に伝わり、僕の心臓はそれに共鳴するように振動してる。  息を凝らして音を立てないように静かにゆっくりとドアを開いてみると、入って直ぐの部屋には電気が点いてないけれど、その奥の部屋の照明の光が、僕の立っている入口まで薄く長く届いていた。 「……先生?」  小さな声で呼んでみても、返事は帰ってこない。  微かに聞こえてくるのは、キャンバスに絵筆を走らせる音。  奥の部屋に近付いて中を覗くと、伸びた前髪を神経質そうに掻き上げながら、大き目のストロークで筆を動かしている教授の横顔が見えた。  油絵具が重なるように散った制作着の袖を肘まで捲り、そこから覗く腕にくっきりと浮き出る筋がセクシーだと思う。 絵筆を持つ、あの長くて繊細な指の僅かな動きを見ているだけで、肌が熱くなるのを感じる。  ――僕はこの人に逢う為にこの大学を選んだ。  雨宮教授を初めて知ったのは、僕が高校三年なった頃。進路に迷っていた時だった。  幻想的なシーンと写実的な背景を融合させた作品が話題を呼び、雑誌に紹介されている教授を見た時の胸の高鳴りを忘れられなかった。  先生の創り出す作品の世界観にさえ、僕は恋をした。  最初は、1頁目に載っていた作品に惹き寄せられて、次の頁を捲り、目に飛び込んできた教授の姿に目が離せなくなって、僕は本屋で立ち尽くし、時間を忘れてその頁を見入っていた。  どこか憂いを含んだような漆黒の瞳や影のある微笑みが、心を掴んで離さない。繊細なのに迫力ある作品の背景に見えてしまう切なさを、僕は感じ取ってしまっていた。  雨宮 侑 って、どんな人なんだろう。  この人のことを、もっと知りたい。  そう思うと、居ても立ってもいられなかった。  雨宮 侑 34歳。美術大学の教授である事が、その雑誌の特集ページのプロフィールに書かれていた。16歳も年の離れたこの人に、強く惹かれてしまう理由を知りたかった。  あれから4年。  懸命に課題をこなし、真面目な学生を演じてきたのも、少しでも教授に近づきたかったから。今年が大学生最後の年。もう一歩教授と距離を縮める何かが欲しいと思っている。  カタン……と、静かに絵筆を置く音と共に「岬くん」と、教授が僕の名前を呼ぶ。それだけで胸の鼓動が早くなる。今この瞬間、彼の瞳には僕しか映っていないのだから。 「遅くなってすみませんでした」  おずおずと提出物の入ったクリアファイルを差し出すと、お疲れ様と言いながら教授が僕に歩み寄る。  両手でファイルを受け取ろうとした繊細な指先が、僕の手にふわりと触れた。 それだけで僕の心臓は壊れそうに高鳴った。 「ああ、もうこんな時間だったのか。集中し過ぎていたな」  僕のドキドキなんて知らない教授は、すぐに僕から離れて机の上に置いてある腕時計を手に取り、時間を確認する。 「今度の個展の作品ですか?」  今し方まで、彼が向き合っていた作品。 「ああ、そういう訳じゃなかったんだけど、これも出そうかな」 「見せてもらってもいいですか?」 「ん? ああ、いいよ。こっちにおいで」  嬉しくて飛び上がりたい衝動を抑えて、僕はキャンバスをそっと覗き込む。 「海……? 岬ですか?」 「そう、岬だね」  キャンバスに描かれていたのは、灯台のある何処かの岬。険しい傾斜地形の崖の向こうに、暗い蒼の海が、何処までも広がっていた。  

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