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第二話朧月夜

 あの春の嵐から10数年。若宮は(つつが)なく元服を迎えた。  だが……周囲が困り果てた。(すばる)と呼ばれている彼は、全く女性に興味を示さなかったからだ。父帝の弟、師宮(そちのみや)の息子、(かける)と連んであちこちを遊びまわる。  とは言ってもこの二人。どちらも抱く側。互いに競い合って、気に入った元服前後の少年を漁る。  昴は母女御の身分がさほど高くない為、宮と言っても気楽なものだ。帝もこの息子の御稚児趣味には、すっかり慣れてしまっていた。  平安末期。次第に乱世の様相を帯び、帝や貴族たちの権勢が衰えつつあった。そんな中で貴族たちの間では、同性愛者が平然と熱い夜を交わしていたのである。どちらかというと、バイセクシャルが多かった時代。昴や翔のように同性だけというのはむしろ珍しかった。  だが昴が美しい真珠を握り締めて生まれて来た事から、彼を特別視する人々も存在していた故に、その嗜好(しこう)もまた人ならざる部分として囁かれていた 「それにしても、都中の美形は粗方抱いたが…つまらないのしかいないな」  押小路の大納言が与えた屋敷で脇息(きょうそく)にもたれながら昴は呟いた。 「近頃はそればっかりだな?そんなに理想通りに行くものか。いい加減に妥協しろよ」  早蕨重(さわらびかさね)の直衣の片袖を脱いで翔が行った。早蕨重とは表を紫、裏が青にした着物の色目で春に着る。 「何かが足らない……それだけだ」  昴はまだ柳重(やなぎかさね)の直衣を着たままだった。柳重は表は白、裏は緑の色目をいう。 「それをわがままと言うんだ、昴」 「うるさい…お前にだけは言われたくない。私が手を出した少年の半分は、お前が手を出した後だったぞ?」 「何を言う、私の方も似たり寄ったりだ」 「近頃は元服前後でもスレたのばかりでいい加減に食傷気味だ」  自ら注いだ酒を舐めながら、昴はウンザリした顔で言った。 「ならば難関を突破して、噂の美少年を手に入れるんだな?」  難関の美少年。それは噂だけで誰も見た事がない。陰陽頭(おんみょうのとう)の末息子で、昴のように真珠を握り締めて生まれて来たと言う。 「そうだな。正面突破と行くか。  誰ぞ、文を書く。用意を」  昴の声に俄かに奥向きが騒がしくなった。美少年趣味の宮がまた……と女房たちが騒ぐのだ。  何しろ当のその本人も親友も、物語の中から抜け出たかのような美形だったからだ。故に屋敷に仕える女房たちはもしかして……を期待していた。  だが昴は彼女たちに興味を示さない。余りに執拗に言い寄ると、宿下がりを言い渡されて解雇されてしまう。それ以外はとても気さくで、優しい主だった。古参の女房たちから次第に、浮ついた事をしなくなっては行ったが、新参者はやはり期待に騒ぐ。  目許涼やかな貴公子で今上帝の第三皇子。後ろ盾の押小路の大納言は身分こそは大納言止まりだが、経済力は相当なものであった。夫としてこれほどの人物はいない。だから若い女房たちが騒ぐ。  親友の翔は全く女がダメというわけでもなく多少は噂がある。気まぐれに手を出した女が、自慢げに話を大きくして噂を流す。だが翔は決して三日夜の餅を交わすまでは通わない。  そう彼は女には3日も興味を続けて持てないのだ。  昴は自分と同じように真珠を握って誕生した少年に、是非とも会って話をしてみたい…と陰陽頭に繰り返し文を描き続けた。だが返って来るのは断りの文ばかり。  拒否されれば会いたくなるのが人間である。昴は親友のからかいに耐えながら、ひたすらに文を出し続けた。  いつの間にか、数多存在した通い処からも足が遠退き、噂にしか聞いた事がない少年に恋い焦がれていた。身も世もなく逢いたいと願った。昴がしたためる文は、次第に懇願へと変わって行く。  自分と同じように真珠を持って生まれた人間に逢いたい。逢えば何故なのかがわかる気がしていた。  季節は秋が深まり長月(九月)へと移りつつあった。  そんな折、陰陽頭から文が来た。 《当家の金銀花が咲き誇り、芳しき香を放っております。今宵は満月にございますれば、月花香を肴に伏見の銘酒を献上いたしたく存じます》  金銀花とは金木犀(きんもくせい)銀木犀(ぎんもくせい)の花の別称である。木犀は月に咲く花と言われ、月花とも呼ばれている。確かに陰陽頭の屋敷にある金銀木犀は有名だった。金銀花は咳止めの漢方薬にもなる。  文を持って来た使いに、早々に返事を書いて持ち帰らせた。 《風の伝 匂い聞こゆる 今宵こそ 月をしるべに たづねゆくかな》 (風の便りに美しい人の噂を聞いて逢いたいと思っていましたが、今夜こそ月の光の案内で訪ねる事が出来ます)と詠んで。  本当は恋の歌を返したかったが、かの美少年に逢いたい理由を真珠を持って生まれた同士……と言っている手前、匂わすくらいにしか出来ない。色めいた工夫もせずに、ただ歌に訪問をするとの返事をのせて使いに渡した。  月が昇る夕暮れまではさほど時間がない。昴はまず今宵の直衣の重を思案する。  月、木犀、秋。  華美になり過ぎずに艶やかに美しく装う工夫。木犀は香りこそ素晴らしいが、花の姿は密やかである。その辺りは秋の花とも言える。  最初に重は月草という色目を考えた。月草とは露草の古名である。この花から採った染料で染めた青を、(はなだ)と呼ぶ。月草の重は濃い縹を表、薄い縹を裏に重ねる。ただ露草の染料は簡単に水で流れ落ちる。後々の友禅染めなどの下絵に使われるような染料なのだ。花薄(はなすすき)も表は白だが、裏に縹を用いる。濡れて色が流れるというのは縁起が悪いように思えた。  結局は様々に迷った挙げ句に昴が選んだのは:桔梗(ききょうだった。これは表は二藍(ふたあい)、裏は濃青(こきあお)という色目である。二藍は紅花と藍で染めた色で、やや灰がかった青紫をさす。またこの時代の青は緑の事である。  これにほのかに伽羅(きゃら)を焚きしめたが、木犀の香を妨げぬように薄くした。  牛車に乗り先触れの声もしめやかに屋敷を立つ。暮れ六時、既に日は沈み、望月が昇り始めていた。仲秋からはひと月遅れだが、澄んだ空気が光を際だたせているこの時期を名月と呼ぶ。  思えば最初に文を送ったのは朧月夜の頃だった。  一条の陰陽頭の屋敷に到着した頃には月は程良き高さに昇っていた。築地塀(つきじべい)を隔てた道からでも、金銀の木犀の香りが漂って来た。  金銀花はまさに天上の薫香。出された酒も美味く、並べられた料理も素晴らしかった。開け放たれた(ひさし)から見上げる望月は煌々と美しく、長月の空気はひんやりと肌に心地良い。  陰陽頭と静かに酌み交わす酒は、深い趣があって心に染みた。 「昴さま、あなたさまがお持ちの真珠をお見せいただけませんか」  ほろ酔いになった頃、杯を伏せた頭が言った。昴は笑みを浮かべて、首に掛けている守り袋を直衣の中から取り出した。袋の口を開け、中から大粒の真珠を取り出した。 「これが私が握っていた真珠です」  迷う事なく掌に乗せて差し出す。 「拝見いたします」  空に昇る月の光を集めて珠にしたように、美しく静かに輝く真珠。この時代、真珠は極々稀に海底から、海士や海女が採った貝の中から発見される貴重品だった。昴が持っているもののような、大粒で真球に形成されたものはまずは存在していない。  陰陽頭は海から上がったものでは有り得ないと確信して、真珠を昴の手に返した。 「私が嘘偽りを申しているのではないと、おわかりいただけました?」 「信じましょう。我が末の息子とあなたさまは、深い(えにし)にて繋がっておるのかもしれません。  どうぞ、息子の元へご案内申し上げます。あなたさまならばあの子をお救いくださるかも」 「救う?」  頭は昴の問いには答えず、自らが灯りを手に先導を始めた。いくつかの細殿(ほそどの)簾の子縁(すのこえん)を通り過ぎ、東北の対屋に案内された。対屋の入口には頭の子息らしい二人が座り込んでいた。 「様子はどうじゃ?」 「防ぐだけで手一杯にございます」  苦痛に顔を歪めながらも、兄らしい男がしっかりと答えた。 「頭、一体、何を防いでいるのだ?」 「昴さま、我が末の息子は確かに真珠を握り締めて生を受けました。だが真珠は真珠でも黒い真珠でごさいます」 「黒い…真珠?」 「生まれつき見鬼(けんき)(霊視能力)が強く、息子の周りには天仙や聖獣・神獣の類が訪れます。ですが…この春頃、あなたさまからの文が参った時期より、様々な障りが起こるようになりました。  ここは力のない者にはただの部屋。しかしながら見鬼には今にも息子を襲わんする、無数の虫たちがそこいらに、ひしめき合っているのが見えまする」 「虫?」  そう言われても昴には何も見えない。 「真珠をもう一度、お貸し願えますか」  その言葉に昴は再び袋から真珠を出して、自らの掌の上に乗せた。 「!?」  するとどうであろう。今まで何もいないように見えたその場所で(うごめ)く、真っ黒な虫が床も天井もびっしりと覆っているのが見えた。 「こ…これは…何だ?」  見た所、虫は黄金虫(こがねむし)のように見える。 「この虫は肉を喰らう魔物。人の肉に喰らい付き、腐らせながら喰い尽くす霊虫にございます。さすがにこれだけの数になりますと、私どもでも防ぐだけでやっとでございます」  頭は口惜しげに言って天を仰ぐように上を見た。 「息子はこの対屋より出られません。生まれ付きに力が強く、もとより魔物たちが寄り集まって来る傾向がございました。  対屋自体に強力な結界を張り巡らしてありますが、それでもこの虫は侵入して来るのです」  頭の話は続く。昴の文を断り続けたのは彼に何かしらの障りが、出るのを心配したからだと。昴はその言葉に頷いて真珠を差し出した。  すると昴が手を動かしただけで、虫たちが甲高い声を上げて少しだけ退いた。 「そんな…」  兄の一人が呟いた。自分たちが苦労して防ぐのがやっとだった虫が、先程まで見えもしなかった昴が手を差し出しただけで恐れるように退いた。  彼らには信じられない光景だった。  昴自身も我が目を疑った。だからそれを確かめるように一歩踏み出した。するとまた虫たちが甲高く()いて退く。  昴は掌の上の真珠を眺めた。はたしてこれは自分の隠れた力が引き出されたのか。それともこの真珠自体の持てる力であるのか。昴がそう考えた次の瞬間、真珠から強烈な光が溢れ出し、そこにいる全員の目の前が真っ白になり、突風が対屋に吹き込んだ。  虫たちが悲鳴を上げ、荒れ狂う風に巻き上げられる。風は対屋を吹き抜けて、虫ごと消えてしまった。  昴はそれを一人立ったままで呆然と眺めていた。頭や息子たちは光と風に翻弄されて、床に伏して耐えるのがやっとだった。  昴は真珠を手にしたまま、部屋の中へ踏み込んだ。  すると脇息にもたれるように座っていた少年が顔を上げた。童髪(わらわがみ)だが、年の頃は13~15くらいだろうか。艶やかな黒髪で涙を浮かべた切れ長の目は、見詰められただけでゾクゾクとする。唇はぽってりと誘うように、朱く色付いていた。  噂に聞こえる以上の美しさに昴の脚が止まった。すると少年は姿勢を改めて昴に向かって平伏した。 「名は何と申す」  昴は真珠を手にしたまま名を問うた。  名を問う。それはそのまま、妻問いの意味をもつ。 「僭越(せんえつ)ながら、異母弟(おとうと)は声が出せません」  兄の一人がそう言った時、少年はゆっくりと顔を上げた。 「宮さまに申し上げます」  か細いがしっかりとした声だった。 「()の名は(さとる)と申します」  陰陽の頭も二人の兄たちも驚きに声も出ない。惺と名乗った少年は幼い頃に高熱で、死にかけてから声を発せなくなって久しかった。頭たち家族や屋敷に仕える者たちは、高熱が原因で声を失ったと今の今まで信じていたのだ。 「幼き頃、病に苦しむ私の枕元に金母(きんぼ)さまがいらっしゃいました」  金母というのは西王母(さいおうぼ)の事である。彼女は女仙の女王とも言うべき存在である。 「その時に金母さまは申されました。私と同じように珠を持って生を受けられた方がいらっしゃる。その方が私を必ず迎えに来てくださる。けれどその時にまでに、私を殺してしまおうと魔物が狙っていると。  それで身を守る為に一切声を発してはならないと仰ったのです」 「私を待っていた?」 「はい」  返事をして彼は掌に黒真珠を乗せて差し出した。昴が手を伸ばしてそれに触れた瞬間、また眩い光が溢れ出した。  気が付くと宙に浮かんで、見知らぬ場所を見下ろしていた。 「ここは…どこだ?」 ………ここは最果ての星  自分の問い掛けに答えたのは自分の声だった。だがそれは自分の口から発した言葉ではなかった。 ……見よ。  最果ての星の空は黄泉色(よみいろ)をしていた。ほの暗い大地に時折、稲妻のような光が交差していく。昴はその光に目を凝らした。 「!?」  光は人が手にしている、剣らしき物が発していた。首を巡らせると、そこここに人影が見えた。  銀色の髪の青年が剣を構えた。するとその背中を守るように、小柄で黒髪の少年も剣を構えた。  光が飛んで来る。二人は同時に近くの岩陰に飛び込んだ。だが青年の脚を光が凪ぎ払う。  倒れた彼に新たな光が……と黒髪の少年が飛びした。  次の瞬間、吸い込まれるように昴の意識と青年の意識が重なった。目の前で自分を庇う少年の胸を光が貫いた。ゆっくりと少年の小柄な:身体(からだ)が宙を飛んだ。  昴は身を起こして敵に剣を向けた。放たれた光が敵を倒す。 昴は傷付いた脚を引きずりながら、倒れた少年に駆け寄って抱き起こした。少年の姿が惺と重なる。  抱き起こした少年の身体には真っ黒な穴が空いていた。その穴がゆっくりと音もなく広がっていく。少年は微笑みを浮かべて事切れていた。抱き締める腕の中で、みるみるうちに少年の身体は穴に呑まれて消えた。  ただ紫色の空の下の凍った大地には少年の剣だけが残されていた。  気が付くと今度は望月の浮かぶ空にいた。雲が漂っていた。この様を地上から観るならば、恐らくは朧月夜になっているだろうと思われた。 《……どうしても行くか》 「大哥(たいけい)(一番上の兄を丁寧に呼ぶ字)…」 《汝が降りても…は汝を覚えてはおらぬ。あれの魂は引き裂かれ、新たに種子から蘇った。転生の記憶は持たぬ、それでも行くか、弟よ》 「全ては私のわがままだとわかっています。ただ側にいたい…いてやりたい」 《ならば行くが良い。だが忘れるな。人の身は(もろ)(はかな)い。汝が成せる事は少ないぞ》 「それでも構わないのです、私は」 「宮さま…?」  惺の言葉に我に帰った。そこは元の陰陽の頭の屋敷だった。 「頭、そなたの末の息子、我が妻に貰いうけたい」  昴は頭を振り返って言った。 「え?」  唖然(あぜん)とする頭と兄たちの前に、昴は腰を下ろした。 「これこの通りお願い申す。数多の浮き名も…彼を探し求めて故。私はやっと、求める相手に巡り逢えた」 「しかし…」 「良いではござりませんか、父上(おもうさん)。惺はこの方にお任せいたしましょう」  兄の一人が言った。母親が違うらしい彼には、常に魔物に狙われる異母弟が目障りらしい。 「この様に手ばかり取られては、宮中の仕事もままならぬではござりませんか。宮さまならば先程の魔虫をお退けなされたように、惺をお守りになられるでしょう」  兄弟が口を揃えて言う。 「…わかり申した。息子を…惺をお願い申し上げます」 「心より感謝する。惺、私と一緒に来るが良い」 「はい!」 「頭、乳母らは明日にでも我が二条の屋敷に参らせよ。準備はして置く故」  頭はもう平伏するしかなかった。  昴は惺を軽々と抱き上げて、車宿りに向かって歩き出した。惺は昴の腕の中に嬉しそうに微笑んだ。  その夜、惺を連れ帰った昴は母屋の寝室の(しとね)で、その小柄な身体を抱き締めて眠った。そうただ抱き締めて眠っただけ。通常ならば有り得ない事だった。  朝餉(あさげ)に起きると最近、隣の東対屋に移り住むようになった翔が、まだ覚めやらぬ朝寝起きの顔で姿を現した。どうやら昨夜、どこかの誰かと一夜を過ごしたらしい。 「ん?昴、その麗しい童は誰だ?」  その言葉に怯えたように惺は昴の後ろに逃れた。 「これ、怖がるでない。これは私の従兄弟、師宮家の翔だ。隣の東対屋に住んでいる」  すると惺は首だけを昴の袖の影から出して翔を恐々と見上げた。 「まあ、座るがよい。その様に突っ立っていては、惺が怯えるであろう」 「惺?」  翔は名前を口にして、しばらくは考え込んだ。そしてようやく答えに思い当たったのか、驚きを隠せない様子で訊き返した。 「まさか…陰陽の頭の末の子息…?」 「昨夜、月花の宴に招かれてな。妻に欲しいと強請って、連れ帰って来た」 「連れて…帰って来た?」 女房が差し出した(しとね)に翔が座る。その前に朝餉が用意された。 「次の吉日を待って、元服してやろうと思う。15歳だと言うのでな」 「ここでするのか?」 「そうだ内輪で行う」 「ふうん…」  翔はじっと惺を見てから苦笑した。 「珍しいな…すぐに手を出さぬとは」  昴は愛しげに抱き寄せて、今まで見た事がないくらい優しい顔で答えた。 「元服が先だ」  それまでは寄り添うだけ。言外にそう匂わせて、惺に食事をするように言った。惺はおずおずと翔に頭を下げて、自分の膳に着いた。その愛らしい仕草に、翔もまた目を細めて微笑んだ。  翔は異国風の建物の中を歩いていた。普段着慣れた直衣や束帯ではなく、ある種の(よろい)のようなものを身に着けている事に気付いた。  不思議な建物だった。昼間の太陽の下よりも、明るい大広間の光源がどこにあるのかはわからない。高い天井を支える為に立ち並ぶ、白い石の柱自体が光を発しているようにも見えた。  その中を勝手知りたる…とでもいうように、翔は真っ直ぐに歩いて行く。  これは自分であって自分ではない。  ……そうだ、これは夢だ。きっと眠りに就いた身体から、魂魄(こんぱく)が抜け出してこんな所へ来たに違いない。  やがて翔はテラスに出た。背の高い男が立っていた。その前に自然と(ひざまず)いて言った。 「…参上いたしました」 「大儀である。弟は無事に…と地上で逢えたようだな?」 「はい」  返事はしたが逆光で相手の顔は見えない。だが夢の中の翔は相手をよく知っているようだった。 「済まぬな。あれのわがままに貴公まで付き合わせて引き続き二人を守ってやってくれ」 「御意」  相手の言う弟が昴を差していると夢の中の翔は納得していた。  昴の兄。昴の父である今上帝には12人の子供がいる。昴は5人目の子供で、母の違う兄と姉が二人ずついる。二人の兄は后宮が産んだ一宮と、梅壷の女御が産んだ二宮。一宮は東宮に立っている。二宮は中務(なかつかさ)に役職をいただき、中務宮(なかつかさのみや)と呼ばれている。  だが昴は無役だ。母女御は最初、宣耀殿(せんようでん)の更衣(こうい)として入内した。美しい才女である彼女を愛でた今上帝が、空いていた登華殿に彼女を移し女御へと昇格させた。  昴はその後で誕生したのである。それでも後宮での二人の扱いは低い。もしも外祖父である押小路の大納言が裕福でなければ、役職がない昴は皇子でありながら路頭に迷わなくてはならないだろう。  呑気に美少年漁りを楽しんでいるように見えて、昴の置かれた立場は決して良いとは言えなかった。  翔とて今上帝の甥であっても似たようなものである。何人かいる父宮の子供全ての生活を、賄う事は決して楽ではない。翔の生母は既に他界しており、彼とて寄る辺なき身であった。  経済的に恵まれた生活を欲するならば、身分があり裕福な家の姫を妻にすれば良い。今上帝の甥が婿になるならば、喜んで娘を差し出すだろう。  だが…どうしても本気になれなかった。浮かれ心で通っても3日夜餅を食べてしまえば責任が出来る。本当に愛しく思えない相手を妻にするのは、古来から身分有る者の常とは言え、翔にはどうにも我慢がならなかった。  現在の二条の屋敷に住み始めた昴から、東の対屋に住まないかと誘われて、渡りに船とばかりに引き移ったのは気楽だったからだ。  昴の兄。だが目の前にいる人物は東宮でも中務宮でもない。それなのに目の前の人物こそ、昴の本当の兄だと感じていた。 「もう夜が明ける。己が身体に帰るがよい」 「はっ」  深々と頭を下げた、その次の瞬間、翔は二条の屋敷の東の対屋で目が覚めた。

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