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第5話 憑依

 常に魔物に脅かされていた生活から二条邸での穏やかな日常に、惺はゆったりとした時間を過ごしていた。様々な事を学び、昴や翔と語らう。夜毎の昴の愛撫に肌が馴染み、性愛の悦びも人肌の温もりも知った。二条邸の美しい庭を簀の子縁に出て、飽く事なく眺めるのも楽しい。  さすがに神無月も末となり、肌寒くなっては来ていた。昨日、押小路大納言から届いた新しい直衣に袖を通した。松重(まつがさね)(表青=緑 裏紫)の袍は、惺の雪のような白い肌に似合う。昴の妻として惺は大納言や御息所への心尽くしを欠かさなかった。後ろ盾がないに等しい惺には二人に心を込めて、礼や季節の挨拶の文をしたためるくらいしか出来ない。  それでも屋敷には式部卿となった昴への贈り物が時折舞い込むようになった。それらをどう扱うか…も、妻である惺の役目なのだ。  だが未だ昴をとられた女房たちの惺への風当たりは悪かった。  昼間、母屋で勉強している時の事だった。 隣接する(つぼね)(女房たちの私室)から話し声が聞こえて来た。 「月花の君の厚かましさはどうでしょう」 「そうよね。仮にも北の方の立場なんだから、北の対屋に下がれば良いのに」 「宮さまがお甘やかしになるから、母屋に当たり前のように居座って」 「宮さまがいらっしゃらない昼間くらい、北の対屋に下がるくらいの常識はないのかしらね」 「きっと知らないのよ、五位の頭の息子なんて鄙者(ひなもの)(都のルールを知らない田舎者)だから」  ドッと女房たちの笑い声が上がった。  惺はいたたまれずにそっと、母屋から簀の子縁に出た。そのまま北の対屋へと向かう。確かに北の対屋は惺の私室として昴が整えてくれていた。  一条の実家から来た惺の乳母や女房たちは、皆、北の対屋に住んでいる。毎朝、彼女たちは母屋まで惺の世話をしに移動して来るのだ。考えて見れば北の対屋に移った方が、彼女たちを煩わせなくてもすむ。  母屋には昴を出迎える時間にいれば良い。そんな当たり前の事に気付かずにいた自分を、惺は恥ずかしいと思っていた。きっと昴も翔も優しいからそんな鄙者の非常識を、咎めずにいてくれたのだろう。  ずっと実家で一番奥の対屋に、閉じ込められていたような暮らししか知らなかった。時間や立場で対屋を移動するべきだとは考えても見なかったのだ。北の対屋で乳母たちに頼んで、本や紙といった勉強の道具を移動させてもらった。今までは誰も使っていなかった北の対屋の部屋はどこか寒々しかった。  世の女性たちは母屋から離れた場所で、どんな想いで夫を待つのだろうか。夜毎に通っては来ない人を想って、独り寝の夜を明かすのだろうか。  いつか自分もそうして昴がここへ、来てくれるのを待ちわびて過ごす日が来るのだろうか。せめて夢の中で逢いたいと、衣を返して眠る夜が来るのだろうか。  本を開けてはみたものの、昴の姿がないと不安になってしまう。共住みが進みつつはあってもまだまだ男が、あちこちに妻を持って通うのが当たり前の時代である。  御息所に浮かれ歩きを止めると、昴は約束をしてはいた。こうして屋敷に共に住まわせてもらっていても不安だった。 生まれてからずっと実家である一条の屋敷の敷地から、外へ踏み出す事はできない状態で生きて来た。東北の対屋に籠もっていさえすれば、生命だけでなく魂までも引き裂かれる事は免れる。  魔物たちは常に惺に寄り付いて来た。父や祖父の結界すら揺るがして、恐ろしい魔手は惺を狙い続けていたのだ。そんな惺にはここは神仙境のような清浄なる場所だった。連れて来てもらえただけで幸せ。自由に動けるどころか、参内して帝や御息所にも対面した。これ以上のわがままを言ったら、天罰が下されてしまう。  昴と翔。帝や御息所、大納言らの無病息災と長寿を祈らせてもらおう。何も恩返しは出来ないから。自分に出来るのは天に祈る事だけだから。  魔を退ける為の浄衣ではなく、美しい衣を身にまとっていられる。たくさんの幸せの中にいる事を感謝したい。  本を開いたままで物思いに耽っていると、いつの間にか辺りは宵闇に包まれ始めていた。惺は慌てて立ち上がると急いで母屋に戻った。  ちょうど先触れが昴が間もなく帰宅すると知らせて来たばかりだと言う。主の帰宅の準備を進める女房たちを惺はぼんやりと眺めていた。  昴がこの時間に戻って来るのは、宮中の宴に出ていたのだろう。宮中で出された料理や酒を摂っての帰宅だと思えた。  程なく昴と翔が戻って来た。 「おかえりなさいませ」 「変わりはないか?」 「ございません」 「今夜は酒を呑み過ぎた。  休むぞ?」 「はい」  どうやら酔っ払った昴を、翔が連れて帰った…と言う事らしい。昴が寝室に入るのを見届けて、翔も東の対屋へと戻って行った。昴が褥に入ったので、惺は母屋の灯りを一つを残して消して回った。  途中で空腹に腹がなった。朝餉(あさげ)を昴と共にしてから、昼過ぎに乳母が運んでくれた白湯以外を口にしていない。夕餉(ゆうげ)を昴が摂らなければ、母屋の女房たちは惺の食事は無視する。どうやら惺の乳母たちはちゃんと食事をしているらしいので、惺は黙って寝室へと足向けた。  昴は良く眠っていた。その寝顔を見つめてからそっと母屋を出て、暗い渡殿を歩いて北の対屋へと戻った。乳母たちにも気付かれないように、そっと袍を脱いで褥に横になった。  ここに来て初めての独り寝だった。  目が覚めたのは暁の頃だった。今頃昴は朝の用意をしているであろう。褥からそっと身を起こすと、気配に気付いた乳母たちが朝の手水(ちょうず)(洗面の道具)を持って来た。  惺がここで眠っている理由を、彼女たちは訊かない。その気遣いが有り難い。しばらくして朝餉の水飯(みずいい)(ご飯を干したものに水をかけたもの)を運んで来た。それを黙って食べた。  一緒に出て来た菜物も食べ、入れてもらった白湯をゆっくりと飲む。  近年まで白湯は贅沢なものだった。現代のようにすぐに火が点けられない時代には、火をおこして湯を沸かす自体が大変な手間と時間が必要だった。 「ごちそうさま」  乳母にそう言って惺は灯りを側に引き寄せた。本を開いて昨日の続きを始める。母屋よりも静かだった。ここは車宿り(牛車に乗り降りする場所)や随身所より遠い。母屋とも長い細殿や渡殿(わたどの)を隔てた場所にある。もとより持ち物も少なくさほど用事がない為に、惺に仕える女房たちも自分たちの局に下がってしまった。  しばらくして母屋から昴の使いの女房が来た。彼女が持って来た文を開くと、母屋へ来るように書いてあった。女房には口頭で返事をして、惺は乳母に着替えさせてもらった。 比金青(ひごんあお)(表黄気ありの青・裏二藍)の袍で身形を整えて母屋へと急いだ。 「おはようございます」  気怠げに脇息(きょうそく)に寄りかかっている昴に惺は恐る恐る頭を下げた。 「目を覚ましたらお前がいないから驚いたぞ?」 「ごめんなさい」 「昨夜の事はほとんど記憶がない。お前が酔った私に参って、北の対屋へ逃げ出したのは仕方がない」  惺は息を呑んだ。何でそんな話が出来上がっているのだろう?ふと泳がせた視線が合った女房が慌てて目をそらした。彼女たちの誰かが、惺がいない理由をでっち上げたのだろう。昴がそれに納得してくれたなら、惺もいらぬ言い訳をしないでいられる。 「ああ、(おつむり)が痛い。今日は参内はしない」 「はい。もう一度、褥に横におなりになってくだりませ」 「そうするから、一緒に来い」  その言葉に戸惑う。女房たちの表情が険しくなったからだ。 「嫌だと申すか?酔っ払いの相手は嫌いか?」 「酒臭いのは…苦手でごさいまする」  苦手にしてしまえば角はたたない。そこへ翔が入って来た。 「二日酔いか?昨夜は呑み過ぎぞ?まあ、大人しい酔っ払いは助かるがな」 「それでも早々に酒臭いと惺に逃げられた」  頭を押さえながら昴が言う。 「ふん、自業自得だ」 「頭が痛いと言ったら横になれと言う。それで添い寝を所望したら断られた」  少し拗ねたように昴が言うと翔が吹き出した。 「これに懲りて呑み過ぎぬように、以後気を付けるのだな?  惺、今日のところは許して、添い寝でも閨事でも付き合ってやれ」 「翔!」 「東の君さま!」  真っ赤になった二人を見て翔はより一層笑った。 「な?」  たたみかけるように言う翔に惺は困ってしまった。女房たちがまた睨んでいる。惺がいると彼女たちは部屋から追い払われてしまうからだ。 「私は…酒の臭いは苦手です。それに勉強もありますから…」  翔の目は惺の浅はかな言い訳を、見抜いてしまいそうで身体が震える程不安だった。 「酒の臭いくらい我慢してやれ。勉強はいつでも出来る。  惺、何を置いても背の君を一番にするものだぞ?」 「はい…申し訳ございません」  昴に近付いて彼を支えて寝室へ入った。 「私ももう一眠りするか」  翔は母屋を出ながら女房たちの様子を窺った。昨夜帰って来た時、母屋から惺が勉強している本類がなくなっていた。自分の女房たちにそれとなく探りを入れると、昼間に北の対屋へ移って行ったと言う。  翔に仕える女房たちは、自分の主の事をよく理解している。だから昴に仕える女房たちの在り方を余り好きではない様子だった。  昴に仕える女房たちは元々、押小路大納言が用意した者たちである。当然、昴の興味を女に向けるようにと最初に言われて、この二条の屋敷に勤めたのだ。その上で惺を快く思わない大納言の意向を受けている可能性があった。昴の留守中に嫌味を言って、惺をこの屋敷に居辛くさせようとしているのではないか。  翔はそう判断した。  昴がやっと落ち着いたのに、身勝手で心無い仕打ちをする。生母の身分が低い昴は、どう足掻(あが)いても今の式部卿が限界だ。ましてや同性にしか興味がなければ子供も生まれない。天地がひっくり返っても今の状態のままだ。  大納言は何を望んでいるのだろう?いらぬ欲は昴を不幸にするとわからないのだろうか。  友として昴の苦悩を見て来たからこそ、惺が現れた事を喜んでいた。  昴と話してみよう。  そう思い立って再び東の対屋から母屋へと向かった。翔が入ると控えていた女房が伏して告げた。 「宮さまはおやすみであらしゃいます」  無視してそっと寝室に足を向けると、そこに眠っているのは昴だけだった。 「邪魔をした」  踵を返して母屋を後にする。そのまま北の対屋へと向かった。  すると北の対屋の入口で惺の乳母が翔を呼び止めた。乳母に招かれるままに、細殿に設けられた局に入った。 「直答を許す、申してみよ」 「はい。北の君さまの事で事でございます」  ややこしいが《月花君》《六位の君》《北の君》というのは全て惺の呼び名である。この時代、名前を呼ぶのは余り好ましく思われていなかった。  《月花君》は昴の女房が陰口を叩くのに付けた呼び名。  《六位の君》は宮中で付けられた呼び名。  《北の君》は正室を《北の方》と呼ぶのを乳母がもじったのである。 「宮さまの女房方は北の君さまを何と思し召しであらしゃいますや?昨日、えろう気落ちなされて北の対屋にお下がりあらしゃいました。一度宵に母屋へならしゃったもんの、夜中にはお一人でこそっとお戻りで」  その言葉に翔は自分が間違ってはいないと感じた。 「それに…朝餉の召し上がるご様子を見るに、昨晩は何も召し上がってはいらっしゃらなかったかと」  昨夜は酔った昴を送った。彼はそのまま寝室へ入った。母屋の女房たちは昴が食べないと、惺には食事を出さないらしい。 「昴には私が話しておこう。よく知らせてくれた、乳母どの」  事態は翔が思っていたより女房たちの悪意に惺が追い詰められている。これは一刻の猶予もならない。翔は東の対屋へとって返した。自室で紙と筆を取り寄せ、昴に惺が置かれている現状を薄墨で(したた)めた。それを本に挟んだ。 「誰ぞあるか?」  すると女房が一人、隣合う局から出て来た。 「お呼びであらしゃりますか?」 「これを母屋の昴に。見せたいものがあると言って、本人が手にするのを確認して戻ってくれ」 「式部卿宮さんへお渡しいたしたらよろしいのですね?行って参ります」  女房の衣擦れの音が遠ざかって行く。程なくして彼女が戻って来た。 「ちょうど起床(おひなり)にあらしゃったとこで、確かにお渡し申し上げました」 「ご苦労さん。下がってくれ」 「あい」  再び一人になった翔は頭を抱えた。  昴の女房を入れ替えるにしても、昨今、なかなか良い人材がいない。だが押小路大納言の息のかかった女房たちではいつか惺が参ってしまうだろう。  誰か相談するにもあてがない。  少々身分や出自が低くても構わない。高慢で昴に執着する女房は彼の為にもならない。まずは自分の女房を増やして、教育していくしかあるまい…。  翔がいろいろと思案していると、衣擦れの音が近付いて来た。昴が来たのだろうと思っていると、御簾の向こう側の廂に童らしい人影が立っていた。 「誰ぞ?」  声が掠れている。動こうにも指一本動かない。さわさわと風もないのに御簾が揺れる。冬だというのに生暖かい空気が、生臭さを伴ってまとわり付いて来た。 「§£¢※ф……」  意味不明の言葉を人影が唱え始めた。声の状態からすると女童(めのわらわ)らしい。 「ぅぐっ…」  見えない何かが、翔の首を強い力で締め付けて来た。  このままでは殺される。  いる筈の女房たちの気配がない。  まるでそっくりな別の場所に、知らないまま連れて来られたらようだった。目に見えぬ鬼が首を掴んで締めているのか、翔の身体が宙に持ち上げられた。  惺はこの屋敷には結界が張られていると言っていた。その結界を張っているのは翔だとも。ならばこの女童は翔を殺して、結界を消してしまう為に来たのか?何とかしなければ昴と惺が危ない。本当にこの屋敷に結界を張っているのが惺が言うように自分だったとしたら…自分に何かあったら昴や惺にも危険が迫る事になる。  翔は懸命に御簾の向こうの女童に手を差し出した。  するとどうであろう。伸ばした手に紅蓮(ぐれん)(ほのお)が現れた。翔自身は熱を感じない。これは自分を傷付けない。そう確信して手を見えない襲撃者に差し出した。 《WOooooo!》  声なき悲鳴が頭の中に響き渡る。気が遠くなりそうな状態を、必死になって耐えながら手を振り回す。何かに触れた感覚があった………と、次の瞬間、翔は床に投げ出された。  痛みに呻き声しか出ない。  御簾の向こうの女童の目が不気味に赤く光っている。  まだ昼のうちだと言うのに、外は宵闇が訪れたかのように真っ暗だ。 駄目…かもしれない……そう思った時だった。  甲高(かんだか)く鳥が鳴く声がした。真紅の炎をまとった朱雀が、闇を切り裂いて飛び込んで来たのだ。朱雀は炎の翼で何もない空間を叩く。すると瞬くように人間の倍程の背丈の鬼が、炎に炙られて姿を現した。  一つ目の鬼。  翔は息を呑んで鬼と朱雀の戦いを見つめた。鬼の長い爪が朱雀の翼を切り裂く。だが炎の翼は瞬く間に回復する。しかし鬼もさるもの。  両手で朱雀の翼を押さえ込んでしまう。朱雀の悲鳴のような鳴き声があがる。朱雀は恐らく、惺の放った式神。式神が敗れるという事は、術者に全ての被害が降りかかるという事だ。  何とかしなければ惺が傷付く。  苦痛を堪えて身を起こすと、全身がカッとばかりに熱くなった。先程の焔が身を包んでいる。だが翔には使い方がわからない。 「ええい!これもあれも同じく火であろうが!」  焦れて叫んだ瞬間、耳をつんざく轟音(ごうおん)と共に焔が朱雀へと流れた。それを受けた朱雀が歓喜の声を上げた。  全身を包む炎が激しくなり、開かれた(くちばし)からも炎が放たれた。鬼が悲鳴をあげてもがく。だが朱雀の炎の爪が鬼の身体を掴んで離さない。メラメラと燃えだした鬼に朱雀はなおも炎を吐きかける。  と、先程朱雀が飛び込んで来て出来た裂け目から、惺が祝詞を唱える声が聞こえた。 「高天原(たかあまはら)神留(かみづま)()す 皇神等鋳顕給(すめかみたち いあらはしたま)ふ 十種瑞津(とくさみつ)(たから)(もっ)て 天照国照彦(あまてるくにてるひこ)天火明櫛玉(あめほあかりくしたま)饒速日尊(にぎはやひのみこと)に 授給事(さづけたもうこと)(おしえ)(のたまわく) 汝此(いましこの)瑞津宝(みずのたから)を以て 中津国(なかつくに)天降(あまくだ)り 蒼生(あおひとぐさ)鎮納(しずめおさめ)よ 蒼生(あおひとぐさ)及萬物(およびまんぶつ)病疾辭阿羅婆(やまいのことあらば) 神宝(かんたから)を以て 御倉板(みくらいた)鎮置(しずめおき)て 魂魄鎮祭(みたましづめまつり)()て 瑞津宝(みづのたから)布留部其(ふるへそ)神祝(かんほぎ)(ことば)(いわく) 甲 乙(きのえきのと) 丙 丁(ひのえひのと) 戊 己(つちのえつちのと) 庚 辛(かのえかのと) 壬 癸(みづのえみづのと) 一二三四五六七八九十瓊音(ひふみよいむなやことにのおと) 布瑠部由良由良(ふるへゆらゆら)如此祈所為婆(かくいのりせば) 死共更(まかるともさら)蘇生(いき)なんと(おし)(たま)ふ 天神(あまのかみの)御祖御詔(みおやみことのり)稟給(かけたまい)て 天磐船(あまのいはふね)に乗りて 河内国河上(かわちのくにはかわかみ)哮峯(いかるがのみね)天降座(あまくだりましま)して 大和国排尾(やまとのくにのひき)の山の(ふもと) 白庭(しろには)高庭(たかには)遷座(うつしましまし)て 鎮斎奉(いつきまつ)り給ふ (なづけ)石神大神(いそのおおかみ)申奉(もうしたてまつ)り 代代神宝(よよかんたから)を以て 萬物(よろずのもの)の為に布留部(ふるへ)神辭(かんこと)を以て (つかさ)()し給ふ(ゆえ)布留御魂神(ふるみたまのかみ)尊敬奉(そんけんしたてまつり) 皇子(すめこと)大連大臣(おおむらじおとど)其神武(そのかみたけき)を以て (いつき)仕奉給(つかえまつりたま)物部(もののべ)神社(かみやしろ) 天下(あめのした)萬物聚類(よろずもののたぐい)化出(なりいでん)大元(おおもと)神宝(かんたから) 所謂(いわゆる)瀛都鏡(おきつかがみ)邊都邊(へつかがみ)八握生剣(やつかのつるぎ) 生玉(いくたま)死反玉(まかるがえしのたま)足玉(たるたま)道反玉(みちかえしのたま) 蛇比禮(おろちのひれ)蜂比禮(はちのひれ)品品物比禮(くさぐさもののひれ) 更に十種神(とくさのかみ) 甲 乙(きのえきのと) 丙 丁(ひのえひのと) 戊 己(つちのえつちのと) 庚 辛(かのえかのと) 壬 癸(みずのえみずのと) 一二三四五六七八九十瓊音(ひふみよいむなやことにのおと) 布留部由良(ふるへゆらゆら)由良加之奉(ゆらかしたてまつ)る事の由縁(よし)を以て (たいら)けく聞食(きこしめ)せと 命長遠(いのちながく)子孫繁栄(しそんはんえい)と 常磐堅磐(ときはかきいは)(まも)り給ひ(さきわい)し給ひ 加持奉(かじたてまつ)る 神通神妙神力加持(じんづうじんみょうしんりきかじ)」  俗にいう《布留部の祓》である。惺の良く通る声がなおも響いて来る。 「一二三四五六七八九十瓊音(ひふみよいむなやことにのおと) 布留部由良(ふるべゆらゆら)と布留部由良と布留布留布留部(ふるふるふるへ)!」  玻璃(ガラス)が割れるような音がして、光が溢れ出し部屋を満たした。その眩しさに目を覆う。見ると短剣を握った惺の前に、太刀を抜いて立つ昴がいた。 「翔、大丈夫か!?」 「何とか…な」  首を振りながら辺りを見回すと、そこには変わらぬ東対屋の部屋があった。だが御簾の向こう側にはまだ女童の姿がある。 「惺、あれは如何するのだ?」 「……呪詛の為に形代にされた者。恐らくはただの動く虚ろでございましょう」 「救う方法はないのか?」  昴の問い掛けに惺は目を伏せて、悲しそうな顔で首を振った。救えるものであるならば救ってやりたい。だが惺の見鬼に映るのは真っ黒い空洞。 「間もなく最後の息も途切れます」 「許せぬ。己の欲を満たす為に、女童の生命を使うとは!」  昴が怒りに震える。  この清浄で堅固な結界に守られた敷地内に入る。それには穢れのない女童を使うしかなかったのだろう。  人として中へ入らせ、呪物として発動させる。最も有効な手段ではある。術者は女童の目で状態を見、その耳で音を聴く。女童が全てを引き受け背負う為、術者には何の被害も及ばない。  それでも翔の力の方が遥かに強く、御簾内に鬼は送れても女童は入れずにいた。だから威力は半減していたのだ。そうでなければ翔は、確実に息の根を止められていただろう。 「東の君さま、ご加勢を賜りありがとうございました」 「あの焔はやはり…」  昴にも彼が全身から焔を放つのを見ていた。 「はい。朱雀の炎とはまた違うものではごさいまするが、間違いなく東の君さまのお力でごさいまする」 「凄いな、翔」  視るのすら惺がいないと駄目だと呟く。 「いいえ、昴さま。ただ太刀で切っただけでは、今の術者の結界は破れません。私も朱雀を通らせるのが、精一杯でございました」 「意味がわからぬ」 「先程の昴さまの太刀には、鎌鼬(かまいたち)が加勢いたしておりました」 「鎌鼬?」 「正体は小さな竜巻です」 「つまりは私が風を呼んだと?」 「はい」  惺は彼が自分を迎えに来てくれた日を思い出していた。あの時も突然起こった突風が、魔虫を全て吹き飛ばしてしまった。固く蔀戸(しとみど)を閉ざした、室内であったにも関わらず。  風を呼び恐らくは無意識に操っている。それが昴の力。風と言えば白虎だが、翔の焔が朱雀の炎とは違ったように、昴の風も白虎のものとは違う感じがした。

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