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憑依

 カタン……  その音に振り返ると今し方まで佇んでいた女童が、御簾の向こう側の冷たい床に倒れていた。かろうじてその幼き身体を動かしていたが、最後の息がとうとう耐えたと見えた。  昴は家人を呼んで女童の(むくろ)を丁重に、化野(あだしの)に運んで弔うように命じた。 「惺、先程の呪は難しいのか?」  標的にされた翔はそこが一番気にかかった。誰にでも安易に出来るならば、幾らでもあのような者が送り込まれ手来る。童の生命を奪ってまでの呪詛。翔一人を殺害する為に、幾人の童の生命が必要とされるのか。考えれば考える程、身の毛が弥立つ。 「術式自体はさほど難しゅうはございませぬ。ただあれにはかなりの力と時間を必要としまする」 「力なき者には難しいと?」 「はい。逆に術式本体からの返しを受けて、術者の生命を奪うと思いますれば」 「ふむ…お前ならば可能か、惺?」  惺の言葉を聞いて、昴が考え込むようにして訊いた。 「術式と力は可能でごさいまする。でも私には自在に操る体力がございませぬ」  呪詛には強い念の力と維持する体力が必要である。よほどの怨みで自分の生命を削るのを、嫌がらなければ直接相手を害する事は可能ではあるが。  敢えて術式を組んで行う、形代を用いての呪詛は安易ではない。しかもこの形代は紙や木、人形のような無機なものではないのだ。魂を持って生きて動く人間。冷酷で残忍な術者。 「知識と力は惺ほど。体力的に判断するとそれなりの年齢の者」 「陰陽寮にはさほどの術者は、今はおるまい?」 「はい。父はおそらく可能ですが、東の君さまに怨みがあろう筈はございませぬ」 「それだがな…惺」  翔は襲われている時に感じた、純粋な感覚を口にした。自分を潰して、昴や惺を狙うのが目的だと。 「そ、それでも、父には理由がございませぬ。誰かに命令されたとしても、帝と都を守護するのが陰陽寮の役目でごさいまする」  父である陰陽頭は己の役目を忘れたりしない。それは惺が誇りを持って言える事だった。 「では兄たちはどうだ?」  殿上している惺を恨めしく見ていた二人。確かに恨まれたかもしれない。  でも……惺は首を振った。 「二人で力を合わせましても、力不足でありましょう」  二人の能力の低さを父がよく嘆いていたのを、いつも愚痴られる側の惺は知っていた。惺が籠もる東北の対屋に来て、彼がそこから出られない事を嘆いていた。 『あの二人では駄目だ。己の欲ばかり先に立って、力不足はどうにも出来ない。惺、お前ならば良き陰陽師となれるのに……』  何度その言葉を耳にしただろう。兄たちも父のそんな想いに、薄々は気が付いていただろうと思う。だから昴が欲したのを良い事に、厄介払いしたつもりだったのだろう。その惺が元服して殿上を許され帝に対面し、呪詛を発見して未だ地下人の兄たちを殿上から見下ろしている。彼らにすれば屈辱的な事実だっただろう。  それでも兄たちには不可能だ。第一、惺一人の為にここまでする理由がない。やはり別の誰かだと思った方が良い。 「巷には金品で呪詛を請け負う者がいると訊き及びます」 「官人でない陰陽師か?そやつらにそこまでの力があるのか?」 「如何に強い力があっても帝や都を守護する志を持たぬ者を、父は忌み嫌い破門いたしておりました。そのような者の中に或いは。  また、蘆屋道萬(あしやどうまん)の例もございます」 「蘆屋道満か…」  蘆屋道満は安倍晴明(あべのせいめい)のライバルだったとされ、様々な伝承伝説が残る。彼は民間陰陽師の代表的な人物であり、必ずしも官人が高い能力と知識を独占していた訳ではない証でもあった。 「だとすると余計に面倒だな?」 「普通に考えれば、先だっての禁中での呪詛を見破られた仕返し…か?」 「それにしては手が込んではいないか、翔?」  昴の言葉に3人共が考え込んでしまった。答えを出すには余りにも、手掛かりが未だ少なく感じられる。 「取り敢えず、注意はする。それしかないであろうな」  襲われた翔本人がそう言うのだ。2人は他に言葉の紡ぎようがなく無言で頷いた。 「で、昴?私の渡したものは読んだのか?」 「読んだ」 「心当たりがあるのか?」 「最近、態度がおかしくなった者がいる」 「何故問い質さぬ?」 「良く気が付く者でな。惺の事もあれが一番に気を揉んでくれたのだ。今更、私を裏切って惺に害を為すとは思えぬ」 「では別の者かもしれぬ」 「心して置く」 「その方が良かろう」 「うむ」  二人の会話の意味が惺にはわからない。 「惺、今少し北の対屋で辛抱してくれ。問題を片付けるから」 「問題?」  惺が不思議そうに首を傾げた。 「今宵は私が北の対屋に行く」  昴の言葉に惺の顔が明るくなった。 「お待ち申し上げておりまする」  北の対屋にいて夫の訪れを待つ。それが本来の妻の在り方。惺はそうやって昴を待つ。いつか彼の訪れがなくなったとしても。  昴の正室として北の対屋に住む。惺にはそれだけで十分だった。  薄暗い局に女が一人座っていた。美しい面差しは無表情で、見開かれた瞳はどんよりと濁っていた。その彼女が身に付けている二つ色の襲(薄紫を二、黄を二、萌黄を二に紅の単重)の衣の上を、真っ黒な魔虫が幾匹も這い回っていた。 「伊勢どの」  御簾越しに別の女房が声をかけた。すると虚ろだった瞳に光が灯った。 「讃岐どの、何かご用意かしら?」 「宮さまが夕餉は北の対屋でと」 「北の対屋?月花の君の所へならしゃるの?」 「そのようであらしゃります」 「わかりました。ではそのように手配を」 「承知いたしました」  衣擦れの音が遠ざかって行く。するとまた、ゆっくりと『伊勢』と呼ばれた女房の瞳から、人しての光が消えて行く。  さわさわさわさわさわ………………………  常人には聞こえぬ魔虫が衣を這い回る音が、局の中に微かに微かに響いていた。

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