7 / 11
第6話 蟲
闇は人知れず忍び寄る。如何に強固な結界であろうとも、密かに内側に入り込まれればひとたまりもない。
魔虫は三条の昴の屋敷に初め、人の体内に潜んで身を隠して入り込んだ。
人という存在はその心の内に正邪を併せ持つ存在。光と闇、善と悪の双方を内に抱いて生きる。故にホンの僅かの小さな魔が潜んでいても、人の内なる闇に紛れてしまう。ましてや嫉妬、憎悪などの闇に染まりつつある人の心に、魔は安易に入り込んでしまう。清浄なる結界はそういった人が心を、完全に喰らい尽くされてしまうまで許容してしまうものだ。
結果として結界の内側は魔のもたらすおぞましい闇に、少しずつ少しずつ気付かぬ慎重さで汚染されていく。
母屋は女房たちが住む局から、ゆっくりと闇の腐敗が進んでいた。一人の女房の身の内に潜んだ魔虫を媒介にして、暗黒の地の底の世界から彼らは溢れ出していた。それは局から局へと渡り、何も知らぬ女房の体内へ耳から忍び込む。
魔虫が入り込んでも、苦痛を感じるわけではない。本人すら気付かぬままに魔虫は、人の闇を煽 って体内にさらに新たなるおぞましい闇を呼び招く。
かさかさかさかさかさかさかさ……………………………
人に聞こえぬ魔虫の蠢 く不気味な音が局を往来し広がっていく。
床を這う音……
御簾を引っ掻く音……
女房の装束にまとわり付き、衣擦れの音に魔虫のたてる音が不協和音のように混じる。
かさかさかさかさかさかさかさ……………………
女房の口や耳から魔虫が出入りする。白い皮膚を持ち上げるようにして体内で蠢く。喰らい尽くされて抜け殻になった者は、闇の操り人形として周囲に穢れを振り撒いていく。澄み渡っていた二条の屋敷が、母屋に付随した細殿の局から汚染されていく。
近頃昴は北の対屋に入り浸りで、まだこの異変に気付いてはいなかった。翔も彼の住む東の対屋には、魔虫だちは近付けないでいる為に気付いてはいない。
惺は違和感は感じてはいたが、昴が側にいてくれる幸せに感覚が奪われていた。
かさかさかさかさかさかさかさ……………………
北の対屋への渡殿で光と闇、正と邪の攻防が人知れず繰り広げられていた。昴たちを守護する強い力が、闇の侵入を懸命に阻んでいた。魔虫はまるで壁がそこにあるかのように、渡殿の入口で跳ね返される。闇の虚ろと化した女房も、それを超えては進めない。
かさかさかさかさかさかさかさ……………………
音にならぬ音だけが響いていた。
異変に最初に気付いたのはやはり翔だった。一度はっきりと狙われた彼は、再度を考えて警戒していたのだ。それでも発見が遅れたのは、昴が北の対屋に入り浸っているからだった。北の対屋には母屋と東の対屋の間から伸びる渡殿がある。
東の対屋から北の対屋へ至るには、母屋へとは反対に車寄せ側を通る方法、東北の対屋近くを通る方法と、母屋の西側から昴の女房の局がある細殿を通る方法の三つの行き方がある。
翔は一番東側を廻る東北の対屋を通って北の対屋へ足を運んでいた。
昴は着替えには母屋へ行くが、それ以外は惺と過ごす為に北の対屋にいた。
惺は北の対屋から動かない。
その日、翔は母屋に以前昴に貸した本を置いたままになっていたので、昴に許可を得て取りに行こうとした。だが簀の子縁を巡って母屋側に一歩踏み入れようとして、そこで足が止まってしまった。
無理に踏み出そうとすると、背中にゾワゾワとした感覚が来る。無視して足を下ろすと全身が不快感に軽く戦慄 いた。全身全霊で母屋側に入るのを拒否している。
どうしたものかと思案していると、ふと気配を感じて顔を上げた。いつの間にか美しい女房装束をまとった女が立っていた。
「伊勢の君…」
白塗りの顔には表情がない。彼女は女房としては身分が高い。その彼女がむき出しの簀の子縁に出ている事が異常だった。身分の低い者に姿をさらすようなものだ。
「伊勢の君…早く御簾の内へ………伊勢の君?」
驚いた翔の呼び掛けに彼女は反応しない。虚ろな瞳で近付いて来る。一歩下がると彼女の指が袖を掴んだ。掴まれた袖からぞわぞわとした、嫌な感覚が流れ込んで来る。
振り払おうとした刹那、伊勢の君の口が開き黒い魔虫が溢れ出した。
「虫?」
見鬼ではない筈の翔にもはっきりとそれが見えた。掴まれた袖を伝って、翔に魔虫が寄生しようと寄って来る。
このままでは危険。そう思った瞬間、翔の全身が灼け付くような熱に包まれた。火焔が全身を包んでいる。
その焔に触れた魔虫が次々と燃えて行く。声にならぬ悲鳴を上げて、魔虫が紅蓮の焔に焼かれて行く。やがて焔は伊勢の君の全身を包んだ。
口から耳から鼻から目から、魔虫が無数に溢れ出し焔に焼かれて行く。伊勢の君は血を流しながら、なおも真っ黒な魔虫を体内から外へと溢れさせ続けていた。
魔虫は尽きる事を知らぬかのように見えたが、しばらくして全てを焼き尽くされてしまった。
焔に包まれた伊勢の君の身体が倒れ焔が消えた。簀の子縁も御簾も何もなかったかのように無傷だ。見ると伊勢の君の衣にも、焼け焦げ一つ見当たらなかった。
「伊勢の君!」
倒れた彼女を抱き起こそうとしゃがみ込んで、その身体に触れた瞬間……彼女は音もなく崩れ始めた。まるで紙が燃え尽きたかのように。全身が黒く染まり、灰となって崩壊して行く。衣を残して全てが灰と化す寸前に、異様な気配を感じた惺が昴を連れて現れた。
「東の君さま?」
「!?」
翔の傍らのものを見て、昴は絶句した。
「伊勢の君だ…」
「何だって…!?」
翔はたった今、目撃したばかりの光景を説明した。
「黒い…虫?」
惺が絶句した。
「昴、母屋の様子がおかしい」
翔の言葉に昴が頷いた。
「どうしてこんな事に…」
涙を浮かべた惺が、伊勢の君の亡骸に手を伸ばした。
「あっ!?」
その指が触れる寸前に突風が吹き荒れた。風は伊勢の君の亡骸を、あっという間に吹き飛ばしてしまった。衣だけが吹き飛ばされず、美しい色目を見せて残されている。
「六位の君、何ぞ策はあるか?」
「恐らくは東の君さまのお力を恐れて、闇は退いて行くと思います。穢れは私が祓います」
「私は何をすれば良い?」
「昴さまは恐らく神風を操られるのだと思います。いてくださるだけで、お二方とも自然にお力が発動されるようです」
陰陽道を使わなければ、力を使えない自分とは違う。
「急々如律令 !」
取り出した符に召喚されたのは鳳凰 だった。美しい翼を羽ばたかせて甲高く啼いた。
「虫に鳥類の王か。適切な判断だな、惺」
昴が鳳凰に目を細めて言った。誰も人を内側から喰い殺す、恐ろしい魔虫を怖がっていない。
式である鳳凰を前に、三人は母屋の簀の子縁を歩き始めた。
「掛けまくも畏 き 吾三柱大神 又特 に 斎奉 り坐 せ奉 る 大年神御年神 の御前 に 職阿部 惺 畏 みも白 さく 百姓等 が朝 に草取り払い 夕べに水引注 ぎて作れる 奥 つ御年 は旱魃 の憂無 く 雨風 の災無 く 弥繁 に繁り弥栄 に栄むと為 しつるを 此頃 害蟲共多 に繁殖 て 枯 し損 なうが故に千 に心砕 きて 防 ぎ禦 むれども人の力の至らぬ隈 多かれば 一向 に大神等 の恩頼 を蒙 りて 此災 を除き祓 わむと御饌御酒種々 の物捧持 て 乞祈奉 る状 を相諾 ひ聞食 て 速 に害蟲 を祓い尽くし 追退 けたまいて 秋の足穂 の八束穂 に熟 らしめ 御歳豊 に収 め獲 しめ給えと 畏 み畏みも白 す」
「除害蟲祭詞!
あははは…そりゃ良い!」
害虫祓の祝詞を唱えた惺に翔が吹き出した。
「虫は虫でも魔界の虫に効くものか?」
「さあ…?」
首を捻った惺を見て、また翔が吹き出した。
「効き目がわからないものを唱えてどうする!」
昴が叫ぶと一層翔が笑い声を上げた。
「貴様ら…緊張感というのはないのか!?」
「成るようにしかならんだろうさ。六位の君の言葉通りだと、ジタバタしてもしなくても、俺たちの力は勝手に動く。
ま、気楽に行こう」
翔の呑気な言葉に昴は深々と溜息吐いて首を振った。
母屋は静まり返っていた。異様な気配だけが満ちて、衣の下の肌までチクチクとした感覚が来る。
「誰 ぞある!」
昴が御簾内で叫ぶと衣擦れが幾つか近付いて来た。惺が耳を澄ましてみると、微かに魔虫の這い回る音が聞こえて来る。
かさかさかさかさかさかさ…………………………
さらさらさらさらさらさら…………………………
姿を現したのは三人の女房だった。白塗りの顔には表情がなく瞳も虚ろだ。
「宮さん、ごきげんよう」
声揃えて言う言葉も、まるで人形か何かのようだ。惺は恐怖に昴の袖を掴んで震えてしまう。
「北の君、宮さんから離れませ…」
一人が手を伸ばして惺を掴もうとした。
「ひぃ!」
悲鳴を上げて仰け反った瞬間、天井近くにいた鳳凰が翼を鳴らして襲いかかった。鋭い爪が衣を掴み、口から零れ落ちた魔虫を嘴 が啄 む。
すると女房の口から悲鳴の代わりに、一斉に魔虫が吹き出した。
凄まじい数である。魔虫はあるものは這い回り、あるものは羽音をさせて飛び回る。部屋に腐った臭いが充満した。
「この臭いは何だ!?」
昴が袖で顔を覆って尋ねた。
「魔虫は生きながらに人間を喰らいまする。肉と心を喰われた人間は、腐敗しながら生き続けます。」
「何と哀れな…」
翔が絶句した。
「こうなったらもう救う手立てはありません」
魔虫は肉を喰らい、心を喰らい…最後は魂まで喰らい尽くす。魂まで喰らわれたら、その者は滅んでいくしかない。人間の魂まで滅ぼす恐ろしく、おぞましい魔界の生物。
魔界の生物は人の心の闇を嗅ぎ分ける。
妬み、恨み、慢心……
そう誰にでも当たり前の心の闇が彼らを惹き付けるのだ。魔はどこか別世界にいて、呼び出されて現れるのではない。常に人間のすぐ側にいて、虎視眈々 と心が闇に染まるのを監視している。
だが人間は自分の闇を見る事を厭う。自分の歪んだ行いに言い訳をして、自分を正当化しようとするのだ。でも自分の心に嘘は吐く事は出来はしない。全ては《天知る地知る己知る》の言葉通り。他者が見ていなくても、自分の眼差しからは逃れられない。
だから闇は心で育ち魔を呼び寄せる。
女房たちの昴への恋心。
決して異性を愛さない、けれども同性とも長続きして来なかった。昴は誰のものにもならない。一方通行の片恋を抱く彼女たちにはそれが救いであった。
だがそこへ惺が現れた。従五位下陰陽頭の末の息子。身分賤しき者の息子。その子を連れ戻り、元服を行う。
その日までただ抱き締めて眠るだけ。昴は手を出さなかった。その後は一応、北の対屋に部屋を与えてもそれは惺の乳母や女房たちの為。惺自身は母屋に住まわせた。
あどけなく愛らしい少年。昴の父帝が従六位を与えてまで会いたがった。無事に今上帝とも、昴の生母の御息所とも対面した。昴の正室としての立場が固められて行く。
女房たちの心は次第に嫉妬から来る憎悪に染まって行った。そうなれば《坊主憎けりゃ袈裟 まで憎い》の言葉のように、惺の一挙手一投足が疎ましく感じてしまう。
五位の息子が偉そうに。謙虚過ぎるくらい謙虚で、昴が出仕している間はひっそりと勉強をしている。自己主張をするかの如く、楽の音をさせたりはしない。昴以外は東の対屋の翔が、訪問するだけである。
しかしそれすらも彼女たちには不快だった。東の対の君にまで色目を使っている。そう思い信じ込む。一度思い込むと、歪んだ色眼鏡でしか見ない。心の歪みを正しいと思い込む。けれども闇はそれを見逃さない。
この屋敷の敷地内は翔が無意識に張る清浄な結界空間。魔虫が入り込んだのは、あの呪詛人形として送り込まれた女童が開けた綻びから。
最初に魔虫の餌食になったのは、昴の女房の中で最も才色兼備の伊勢の君だった。恋心を隠して一心に昴に仕えていた。昴の信頼も得ていた。だからこそ惺への嫉妬は激しかった。
おとなしいだけの惺。陰陽頭の息子ゆえに、見鬼だと言うのが鬱陶 しく気味悪い。
それが伊勢の君の想いだった。いつかは昴に災いをもたらすのではないか。その思い込みが伊勢の君の心を、暗く深い闇が満たした。
魔虫は闇の匂いを頼りに、伊勢の君の体内に入り込んだ。生きながら蝕まれても、痛みも不快感も感じない。ただ闇が深まる為、憎悪や嫉妬が強くなる。
昴が不在な折りの惺への嫌がらせ。惺の不安を煽るそれは、昴と翔の強い守護を受けている彼に、心の隙をつくらせる為だった。
だが惺の不安を解消するように、昴が北の対屋へ行ったきりになってしまった。
伊勢の君の中で増殖した魔虫は、次々と嫉妬に身も心も焦がす女房たちへと広がって行った。母屋も女房たちの住処の細殿の局も、魔虫の這い回る闇に染まった。すると穢れを避けるように、翔も昴も惺も母屋へ足を踏み入れない状態になった。
彼らは無意識だったが、内なる深い所で危険を察知していたのだろう。
「かけまくも…」
惺が今一度、害虫駆除の祝詞を唱える。すると他の二人の女房の口からも魔虫が吹き出した。
「何だ、ちゃんと効いてるじゃないか」
翔はどこまでも呑気だ。
それだけではなかった。四方から魔虫の羽音が響いて来た。
かさかさかさかさかさかさかさかさ………………
「囲まれたぞ!?」
「惺の声に呼ばれたか」
驚愕の声を上げた翔とは裏腹に、昴はどこまでも冷静だった。スラリと太刀を引き抜いた。
翔がそれに続いた。
すると惺の口からいつかの石上の布留の祝詞が飛び出した。まず昴の太刀に触れ、続いて翔の太刀に触れる。そうする事でただの太刀に神剣の力を与えたのである。
「一二三四五六七八九十瓊音 布留部由良 と 布留部由良と布留布留布留部 !」
惺の声が空間を震わせた。魔虫たちが一斉に惺に近寄って来る。
「惺!」
「六位の君!」
昴が太刀で天井から降り注ぐ魔虫を振り払う。と…太刀から風が起こり、その風が次々と小さな竜巻になり魔虫を巻き込んでいく。竜巻同士がうねりぶつかり合う。風はそれによって鎌鼬 を起こし、魔虫が次々とバラバラに切り裂かれ砕かれて散り飛ぶ。
翔の太刀は焔をあげ魔虫を紅蓮で焼き払う。
音無き音が響き、静かな悲鳴が当たりを包む。腐臭が風に吹き払われ、焔に焼かれて消えていく。
それは哀れな女房たちの弔いだった。
「掛巻 も畏 き産霊之大神達 の奇 しき神霊 に依 りて 現出座 る五柱 の元津神 は 風の神志那津比古之志那津比賣之命 火の神火産霊之命 金の神金山比古之命 金山比賣之命 水の神彌都波能賣之命 土の神埴山比賣之命達 是 の五種 の元津気 を以 て 世に所有物 を生幸 へ給へる 最 も奇比成 る御恩頼 に報 い奉 らむと為 て 稱辭竟奉 る状 を平 けく安 けく 聞食 と白 す」
『五元之神 を拝む詞』という祝詞は、五行を司る神を拝するものである。
風を呼ぶ昴。
焔を操る翔。
ならばこれを……と惺は判断した。
するとどうであろう。風が焔を巻き込んだ、紅蓮の竜巻が部屋のそこここに出現する。焔の熱が風を強め風が焔の勢いを増す。それを見て惺は二人が共にいる理由を理解した。
焔の竜巻が引き合い魔虫たちを吸い込んで焼き払う。その中心で太刀を握り締めた昴と翔に挟まれた惺が、なおも『五元之神を拝む詞』を繰り返す。
夕闇が迫る刻限に粗方母屋の魔虫を切り裂き焼き払った。だが焔の竜巻は消えない。そのまま御簾を抜けて西側へと進んで行く。
「あれはどこへ行く?」
翔の問いに昴が口を開いた。
「女房局の方向だ……」
自分に仕える彼女たちが魔虫に全滅させられているのかもしれない。
その事実に昴は胸を痛めた。彼女たちに罪はなかった筈だ。自分の配慮が足らなかったのではないのか。
「申し訳ござません…私がこの屋敷に来たばっかりに…」
魔虫が狙っているのは惺だ。入り込むきっかけが翔への呪詛 であろうとも、自分さえいなければ魔虫は寄っては来なかった。
「それは違う……!全ては私が悪いのだ。彼女たちの気持ちを感じていながら、無いもののように扱っていた。応えられないにしても、もっと気持ちを汲んでやる方法はあった筈だ…」
昴は自分に寄り添ってくれる相手に出会えない苛立ちを、彼女たちに対して出していたのではないか。そんな風に思った。
「二人ともやめろ。それは敵の思う壺だぞ?魔性が寄って来るには、来るだけの理由がある。彼女たちがこんな姿になったのはそれぞれ本人の責任だ。
人間、生きていれば恨みの一つや二つ、誰かに持たれるもんだろう?皆に人気がある者でも妬まれる。いちいち気にしていたら、生きてなぞいられるものか」
翔の言葉に二人は息を呑んだ。
「勝手に懸想 して勝手に独占欲持って、勝手に嫉妬したのは彼女たちだ。
六位の君は昴と契って妻になった。昴が求め続けてようやく得た大事な存在だ。お前は昴には必要なのだ」
翔の言葉に昴も頷いた。
「あれがお前を狙っているのは最初からわかっている。私はそれごとお前を連れて来たのだから」
「昴さま…東の君さま…」
守ると決めたのだと昴が呟いた。
「それに呪詛自体はお前に責任はない。女院さまが狙われた。それは紛れもない事情だ」
「そうだな。それで私を邪魔に思って、先日のような呪詛を送り込んで来たのは、六位の君には何の責任もあるまい?
それが結果としてこのようなものを呼び込んでも、六位の君は単なる被害者ではないか」
「翔…」
翔は二人に笑みを向けてから大きく息をした。
「人間に一つも罪のない者などいない。
そうだろうが?
一足、野に踏み出せば土の上にも生命はある。それも殺生だと罪を抱けば、我々は何も出来なくなるではないか?罪を重ねて生きるのが人間ぞ。
それをお救いくださるのが御仏であろう?」
翔の考え方はこの時代の人々の共通の考え方であった。衣食住ひとつをとっても人間は常に何かの生命を奪う。それは仏教の教えからすれば殺生という罪。だが同時に人が人として生きるには必要不可欠なもの。それを責めても人は生きる事を止める訳にはいかないのだ。ましてや人と人の関係は袖摺 り合う機会がなくても、相手に好感も悪意も持つ。
「これはこれで救うてやったのさ」
翔の言葉に二人はしっかりと頷いた。
二条の屋敷で鬼が出て見目麗しき女房たちを喰らい尽くして惺に退治された。巷 にはそのような噂が広がった。
もちろん翔が内裏でわざと流したのだ。しかも呪詛騒動もあったとも噂が広がった。
ともだちにシェアしよう!