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第105話 手を出すな

【斗織Side】 騙された───と気付いたのは、正面から着物の母娘が歩いてくるのが見えた時だった。 向こうが頭を下げるから、母親に倣って会釈する。 中学生の頃は、母親が選出した嫁候補とこうして何度も食事会をさせられてきた。 けど、それも俺が「結婚相手は自分で選ぶ」と大見得を切ってからはピタリと止んで、それからは結婚相手については俺自身に任せてくれてるんだと思ってた。 約束の25歳まで、まだ8年もある。 約束自体を反故にしようとしてんのか、勝手にルールを弱めたのか。 どっちにしろ俺の(はらわた)はぐつぐつと煮えたぎり、反対に心の方はやけに静かに冷えきっていた。 食事の相手は牧原親子。 母親の方は結婚前からのうちのお弟子さんで、娘の方は俺の受け持つクラスの生徒さんだ。 牧原母は矢鱈と上機嫌で、母親もそれに応じるように笑顔だった。 牧原娘は顔を赤く染めてはチラチラとこちらを窺い、俺と目が合いそうになると慌てて逸らしていた。 まあ、こっちは態々見るつもりもねェし、視界の先に入り込んでくる景色の一部として換算してるから、目なんか合う筈もねーんだけどな。 つかテメーも親に何言われたかしんねェけど、その気になってんじゃねーよ。 俺には遼がいるから、当然結婚なんかするつもりは無い。 けど、それを言っても今の段階じゃ母親に一蹴されて終わるから、まだ周りを固める段階で、伝えるところまでは来ていない。 今はまだきっと、母親の心無い言葉で遼の心を傷つけるだけだと思うから。 仕方ねェ…か。 相手はうちの生徒さんだし、なんとか穏便に済ませる方法を考えよう。 ……と、仕舞ってあったスマホが震え、受信を知らせた。 ───遼か? 取り出して確認すると、級長からのLimeだ。 『お見合いですか?皆で見てしまいました。勿論、柴藤君も一緒です。』 「はあっ!?」 「…斗織?」 母親が俺の声に驚いて、足を止める。 「いえ、すみません、ちょっと…」 すぐに次が送られてきて、その言葉は更に俺を驚かせる。 『まあ、3月で別れる事が決まっているならその後のことは好きにしても良いでしょうが、まだ付き合っているという自覚は持っていた方がいいでしょう。』 まだアイツ、そんな事言ってやがんのか! 『柴藤君が淋しそうなので、今夜は羽崎君の代わりに僕が抱きしめて寝て差し上げようと思います。』 「は!?あり得ねェ!!」 『すぐ終わらせて合流する  遼に手を出すな!』 即行打ち込んだLimeにはすぐに既読が付き、腹を抱えて笑うスタンプと、『了解しました。ところで、イクラが食べたいのですが。』の文字が返された。 は?イクラ!? なんで突然イクラだよ?! ……つか、なんだこの運の悪さは! なんでこのタイミングで、ピンポイントで俺の通り道フラフラしてやがんだよ。 こんな、どーでもいい女と一緒にいるとこ見られて落ち込ますとか、俺サイテーじゃねェか!! 「あーっ!」 髪を掻いて前髪を崩す。 母親は俺の行動に、まるで息子が奇行に走ったかのように目を見開いて、何も言えずに佇んでいた。 そりゃそうだろう。この人には常に俺の真実など見せず、上品な息子を演じてきた。 逆らったのも、あの一度きりだ。 佇まいを正し、母親を見つめる。 「母上、この様な事はお止め頂きたいと言いましたこと、お忘れですか?」 母親は落ち着きのない視線を漂わせ、手にしていたバッグを抱き寄せる。 「いえ、ですが…、牧原さんには貴方から…」 いつもの凛とした声は何処へ行ったのか、大和兄さん相手なら兎も角、自分の自由に扱える息子一人に怯える玉でもあるまいし。 「私が何をそちらのお子さんに?」 「先生、私が家元の母親になるのが夢だと言ったら、考えておくと言ってくださったじゃないですか」 母親の代わりに、本人がそう答えた。 「ああ、お子さんを養子として頂けるという件ですね。それなら、実子が居ずとも跡継ぎは出来る。その様な方法もあるのだと提示して頂き、感謝したことは覚えておりますが」 「それは、先生と結婚して、2人の子供を…っ」 「そう勘違いさせてしまったなら、そのことについては謝罪します。ですが、母上」 体の位置を変え、牧原母娘が視界の隅にも入らないよう移動する。 くだらない勘違いで遼を悲しませた奴らにくれてやる視線なんざあるものか。 「俺は面食いで、好みには煩い。そんな子供相手じゃ、貴女の欲しい孫だってくれてやれませんよ。体がこれっぽっちも反応しませんから」 「まあっ…!!」 牧原母の悲鳴のような声が上がった。 「まだ紹介出来る段階ではありませんが、一生を共にしたい相手がいます。その人は、子供を産むことが出来ない。ですから、彼女の申し出は大変有り難かったのですが。……どうやら期待外れだったようです」 それが相手を傷付ける言葉だったたとしても、そんな事は知ったこっちゃねェ。 遼が泣いているかも知れないと思えば、キツく当たっちまうのも道理だ。 「ですから、二度とこのような仕打ちはやめて頂きたい。そう言うことで母上、私はこれで失礼します」 娘の顔は最後まで見ずに、母親にのみ向かい頭を下げた。 「俺を待っている友人達がいるので、帰らせて頂きます。今夜は大豆田の家へ泊まりますので、家へは戻りません」 そして俺は言葉を失った3人を置いて、足早にその場を去ったのだった。

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