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第364話 とある母親の回顧録
【嵯峨野百合子の話】
初めて竜ちゃんが家に遊びに来たのは、去年の12月の事だった。
「おじゃまします!」
と玄関から聞こえてきた声は、息子と同じ歳の男の子にしては少し高くて幼くて。
中学校の後輩を連れてきたのかと思ったけれど、その子は陸翔と同じ制服に身を包んでいた。
「こんにちは!はじめまして。級長と同じクラスの大豆田竜臥です。突然お邪魔してすみません」
前髪をツンツン立たせてちょっとヤンチャな今時の子に見えたけれど、その実、礼儀正しく行儀良くて、正しく敬語を使えるその子に私はすぐに好感を持った。
サイズと容姿の男児っぽい可愛さも高ポイント。
私が気に入った以上に陸翔は竜ちゃんを好いていて、ちょこちょこ家へ連れて来ては、くっついて座って幸せそうに笑っていたり、膝に乗せたり、甲斐甲斐しく世話を焼いていたり。
陸翔は昔から、小さくて可愛い男の子に執拗に構うきらいがあって、しつこいと怒られることも良くあったけれど…。
竜ちゃんはそれを嫌がることなく享受して、互いに良好な関係を築いているようだった。
息子の眼差しを見れば抱く気持ちを察するなど、今晩の献立を考える事に比べたら実に簡単なことだった。
そう言えばお茄子を沢山頂いたから、今日の夕飯は麻婆茄子にしようかしら。
私は元裁判官だ。
陸翔の出産で休職したけれど、保育園に入園した3つの年に復帰した。
その時は、今も未だ仕事を続けているものと思っていたけれど………
陸翔が小5の秋頃、とある裁判を担当したことにより、その予想は大きく外れることとなる。
竜ちゃんが泊まりに来た晩、陸翔が入浴中にその話をしたことがある。
「被告人は38歳の女性。被害者は25歳の男だった。そして、女性の小学生の息子に猥褻目的で近付き、抵抗された為殺した、息子の仇 でもあった」
高校生の子には、刺激が過ぎる話だったろうか。けれど決して一件だけに留まらない男 達の犯罪は、この世にいくらでも溢れている。
相手が、女性、少女と変換されれば更にその数を増すこととなる。
だからこそこれは自分にとっても他人事ではなく、……心を揺さぶられずにはいられなかったのだ。
「男は捕まり裁判にかけられ、判決は、───精神鑑定により責任能力が無かったとされ、無罪」
「っ───そんな…!」
「だから母親は、その男に報復せずにはいられなかったの」
「だったら、じゃあその人だって、情状酌量で…」
「現代の日本では、仇討ちは認められていない。だから、男は無罪だったけれど、母親には有罪判決が突き付けられた」
「……………」
子供にはやはり、ショックの大きい話題だったろうか。
黙り込んでしまった竜ちゃんの頭を撫でると、俯いた頭がピクリと反応する。
「裁判官はね、それでも公正に判決を下さなくてはいけないの。
陸翔のお父さんはね、陸翔に自分達と同じ裁判官を目指して欲しいと考えてる。
けれど私は、陸翔は検事の方が向いているんじゃないかと思うの。あの子、子供の頃からヒーロー物が好きでしょ。悪に鉄槌を下す正義の検事、なんて素敵じゃない?」
素敵なだけじゃない。検事も検事で大変な仕事だということは分かっているけれど、犯罪を犯した者を弁護する仕事よりも、ずっと陸翔に向いてると思っている。
私としては、進学先を法学部に限らず、好きなことを学べば良いのではないかと思っているけれど。
「件 の裁判でね、私は裁判官を辞める事を決意したの。
その時、公正な判決を下さなければならない筈の私の頭に浮かんだのは、母親に対する同情と同調だったから。
裁判官ではなく、自分も母親として、母親の声を聞いてしまったから。
私はもう、人を裁くことは出来ないと思った。
───そんなおばちゃんの、ちょっと情けない昔話でした」
最後はおどけて、おかしな空気が残らないように。
話し終えた筈なのに………
竜ちゃんの表情は真剣で。
笑ってる自分こそが、場の空気を毒していっているようで…………
「……情けなくなんてないです…っ」
ギュッと拳を握って私を見上げる大きな瞳が濡れて揺れる。
「リクトは…っ、嬉しかったと思いますっ。百合子さんが、お母さんで…っ!」
ポロリ───と、前触れもなく零れたのは、私が流した涙だった。
それを見た竜ちゃんの瞳からもまた、ポロリポロリと零れ落ちて……
私は年甲斐もなく、息子の友達(想い人)を抱き締めて、声を上げて大泣きしてしまったのだ。
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