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第3話
目の前の鍋が煮えてきた。太が菜箸でえびとたらの切り身を入れる。うまいだし汁を吸った切り身は、やがて白くなる。えびも色鮮やかに煮えた。
「ほら、食えっ」
ポン酢が入った小皿に、たらとえび、豆腐に白菜を盛られる。賢は胡麻を小さじですくい、パラパラとかけ、もみじおろしも乗せてから、たらを食べてみた。
口の中でホロリとほぐれる。味が染みていておいしい。
「うまい…! これだ…大隅部屋特製海鮮塩ちゃんこ!」
まるで久しぶりに母親の手料理を食べたように、賢の目が潤む。
「懐かしいなぁ…太の味…」
「このちゃんこ鍋のおかげで、賢の野菜嫌いがなくなったもんな」
賢は鼻をすすり、えびや白菜、豆腐などを次々に食べる。
「太の包丁さばき、今でも目に浮かぶぞ」
「俺は漁師町出身だからな、みんな魚なんて毎日さばいてるから、俺も見よう見まねで覚えたんだ」
「さすが、“大隅部屋の板長”なんてあだ名がつくだけのことはある。…そういや師匠は一昨年、定年だっけ」
太はグラスをテーブルに置いた。少し眉が下がる。
「ああ…。部屋は継承されたが…。去年、師匠が心臓の手術したんだ。ほかにも腎臓とかに病気抱えてて…」
「まだ六十代だろ。そんなに悪いのか?」
太の大きなため息が、その答えだ。
「力士は食生活むちゃくちゃだからな。激しい運動で、体に負担もかかるし」
「俺たちも人ごとじゃないな…とか言いながら、箸が止まらんが」
苦笑しながら、賢は鍋をつつく。
そんな賢を、太が見つめる。
「賢…もしも怪我がなければ、横綱になって、今ごろは部屋持ちで――もしかしたら大隅も継承してたかな。横綱になって大記録を残していれば、一代年寄だってなれただろう…。鷹羽島親方、って…」
賢の箸が止まる。
「よせよ。相撲の世界じゃ、“もしも”や“あのときああしていたら”なんて仮説は不要だ」
“もしも”なんて言うな。結果が全て。全ては努力と稽古に出る。後ろを見るな。師匠の教えだ。
「いや、悪い。賢が羨ましくてな…」
太は寂しそうに、グラスに口をつける。溌剌としていた太が、一気に老けたように見えた。
「俺なんて両親や親戚から、テレビで見たいってせっつかれて。だから、テレビで取り組みを放送される賢が羨ましかった」
太の肩が下がる。昔から細めの“そっぷ型”と言われてきたが、何となく痩せて見えてしまう。
「関取になれて、幕内まで上がれた後は、怪我で陥落。悲劇の関取と言われたけど、賢は俳優として成功してるじゃないか」
果たしてそうだろうか。
引退後、後援会に、芸能プロダクションの社長と知り合いだという人がいて、今の事務所を紹介してもらった。
仕事にあぶれることはないが、脇役やチョイ役が多い。事務所の意向で、出たくもないバラエティー番組に出される。
「そうかな…」
店内の熱気のせいか、ずいぶん氷が溶けて薄まった吉四六を一口飲んで、賢はつぶやいた。
「俺は太が羨ましい」
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