8 / 13
第8話
翌日の昼休み――。
本館地下一階にある職員用レストランで遅い昼食をとっていると、向かい側に知った顔が座った。
「ここのカレー、美味しいわよね」
天ぷら定食を手にした看護師長だった。
「今朝の回診、研修医クンだったわね」
「偶には任せてもいいだろ?」
「花も貰えなかったし、看護師達が心配してたわ。合コン話をした時に騒いではしたない姿を晒してしまって先生に嫌われたんじゃないかって」
「別にぃ。気にしてねぇよ」
ニッと笑って柴はカレーを食べるのを再開した。
今朝は花屋に行かなかった。店の前を避けるように公園の中を突っ切って病院に入った。昨日のことを思い出しそうで、いつものコーヒーショップも寄らなかった。今日はコンビニで買ったパンと缶コーヒーが朝食だった。
「先生、店長と何かあった?」
「……言いたくねぇ」
「あら、そ」
なら聴かない、というように看護師長は天つゆを天ぷらにバシャリと掛けてから食べ始めた。
「看護師長、ぶっかけちゃうわけ?」
「いつもなら丼にご飯を入れて、天ぷらのせて、天つゆぶっかけで食べるの。ほら、急患が出たら困るでしょう? 早く食べる癖が付いちゃってねぇ。ラーメンも非番の日以外は食べられないのよね」
「確かに。俺も救命に居た時、今日こそ! ってチャレンジして何度も失敗した」
「あ、そうそう! 救命と言えば!」
看護師長は海老天を頬張りながら声を落とした。手招きされて柴も顔を寄せる。
「救命の女医、田島先生知ってる? 彼女、つい三か月くらい前に彼氏ができたって噂だったんだけど、オメデタになっちゃったらしいのよ」
その手の噂は広まるのが速い。この看護師長の耳は地獄耳だった。
「救命で毎日朝から朝まで神経すり減らしてるでしょ? その反動かね? 付き合い始めた彼氏と一気に燃え上がって、全てを忘れる為に勢いに任せて短い逢瀬を情熱的に過ごした結果じゃないのかしら」
「プライベートまでよく知ってるなぁ」
「まぁ、スイッチの切り替え方法は人それぞれだけど、お酒とお金とセックスは代表的な方法よね。彼女はセックスだったって訳だ。で!」
「で?」
「今年いっぱいで病院辞めるらしいのよ。まだ結婚してないけど新年は彼氏とのんびり過ごしたいってことね」
「じゃぁ……」
「救命、いい加減人手が足りなくてシフトをカツカツで回してるのに窮地に追い込まれるってこと。院長が血眼になって医師探してる」
「あと一か月で救命に来てくれる医師かぁ。無理じゃねぇの?」
「そう。で、柴先生に白羽の矢が立ってる」
看護師長が柴の額を小突いた。
「先生、研修医の期間も合わせたら五年も救命に居たんでしょ? 即戦力として使えるって院長は判断して早々に小児科医を募集するつもりらしいわ。覚悟した方がいいわよ」
「ウゲッ! マジ?」
「マジよ。私の情報に誤りはないわ」
看護師長は断言した。
兄の辛い経験から救命救急を辞めて小児科医となった。正直、あそこに戻りたくはない。だが、断る理由は何だろう。
「今の俺に……守るものは?」
今の柴の携帯電話を鳴らすのは誰だろう。勤務先にまで緊急の電話を掛けてくるのは誰か。その電話に出られなくて困ることがあるだろうか。
「……断る理由かぁ」
「そのうちお声が掛かるだろうから気持ちを整理しておいた方がいいわよ」
そう言った看護師長は携帯電話に呼び出された。ポケットから取り出した院内専用の携帯で短く会話をすると彼女は席を立った。
「持ち帰り用の丼を貰わなきゃねぇ。折角の天ぷら定食が、冷えた天丼になっちゃうなんてイヤよねぇ」
「頑張れ」
看護師長を見送りってから一気にカレーを平らげると柴は職員用レストランを後にした。
「さぁ、俺も頑張ろ」
気を取り直して、と一人呟いて一度医師控室に戻った後、柴は外来診療室へ向かった。
午後の外来診察と夕方の回診は驚くほどスムーズに終わった。嵐の前の静けさとでもいうような時間に柴は変に肩が凝る気がした。
「さっさと帰るか」
陽が落ちる前に帰路に着けることの有難味を噛み締めながら柴は病院の正面玄関から出ようとした。
「……あ」
私服姿でエレベーターを降りた時、ある男性が視界に入った。
総合案内カウンターに沢山の花束を運んできた、緑のエプロンを付けた長身の男性だ。
「志貴……」
入院患者かその家族か、誰かが注文したのだろう。接客しないという店長自ら配達してくるとはどういう事なのだろうか。店が繁盛していてアルバイトの手が足りず、渋々、配達に出たのだろうか。それとも、何か他の意図があるのだろうか。
遠過ぎて店長の表情は見えなかった。だが冷たく感じる程に淡々と仕事をこなす様は容易に想像できた。
「イイ男だよなぁ……。あっちも悪く無かったよなぁ」
無意識のうちにそう口にしながら柴は暫く店長の動きを目で追っていた。
花束の数を数え、明細書を確認し、受け取りのサインを貰う店長の一部始終を見ていた柴だが、ハッとして視線を逸らせた。「やべぇ。見てるのがバレちゃマズイ」
あっさりと振られた昨日の今日だ。未練タラタラに見詰めていることがバレたら、気分が悪い。
柴は視線を逸らし、患者の家族のふりをして会計カウンター前の椅子へ進むと新聞を手に取って顔を隠しながらベンチに座った。
自分に気付くこと無く病院を出て行く店長の姿を確認してからソッと立ち上がり、花屋の前を避けて公園を突っ切った。
誰かにこの行動を不審な目で見られているような気がしてならない。ただの気のせいなのだが、落ち着かなかった。
「何やってんだろ、俺」
公園の外へ出てからチラリと花屋の方を見た。街路樹に阻まれて花屋は殆ど見えない。
「何か、後ろめたいんだよな。やっぱり、買いに行ってねぇからか? そりゃ、新しい花を買う約束はしたけど、でも、毎日通う義理は……多分、ねぇ。多分。っつーか、どんな面で行けばいいんだ? 行けねぇよ! いや、アレは気の迷いだった。うん。そうに違いない」
花瓶をサービスしてもらい、花が枯れる前に新しい花を買いに行く、という約束が喉に刺さった魚の小骨のように気になっていた。
ただ失恋しただけならまだしも、体を重ね、悦楽に酔う醜態を晒した後だ。とても恥ずかしくて店に足を運ぶことはできない。記憶を消したい、と本気で思ったのは兄の死以来だ。
柴は一人で悶々としながら帰宅した。
その夜、院長から携帯電話に連絡があった。
救命救急へ異動しないか、という打診だった。考えさせてくれ、と柴は答え、電話を切った。
返答期限は設けられなかったが、看護師長の話が本当なら猶予は余り無いと思っていた方がいいだろう。
二十四時間体制で重篤な患者を受け入れる救命救急に行けば、今のような日々は送れなくなる。ナースセンターへ花を持って行ったり、入院しているおませな少女に翻弄されることもなくなるだろう。勿論、色恋沙汰などに現を抜かす暇も有るはずがない。医師としてのスキルは上がるし、今は失うものもない。
「……給料も上がるし、悪い話じゃねぇかもな。でも……」
何故か柴は迷っていた。何故迷うのか明確には解らない。ただ、漠然とした不満、釈然としない想い、未練のような物が胸の辺りに渦巻いていた。
「異動受けたら、俺、何だか逃げるみてぇ……。って、何から逃げる?」
柴はベッドに仰向けとなって目を閉じた。
直ぐに返事をする必要は無いのだ。ゆっくりと考えよう。そう自分に言い聞かせた柴は考えるのを中断した。
ともだちにシェアしよう!