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第9話

 柴が公園を突っ切って病院を出入りするようになってから二週間が経った。  本館九階のナースセンターでは柴と花屋店長の間に一悶着あった説と、異動の話で柴が悩んでいる説が浮上していた。  どちらで柴が苦しんでいるかで対応方法が変わる、とでも言うように看護師達は息を顰めて柴の様子を窺っていた。もし、この悩みを解決すれば自分が柴にとって特別な存在になれる、とでも思っているようだった。 「看護師長、ちょっと」  柴は朝の回診前に看護師長を呼んだ。手に強敵さくらちゃんのカルテを持っていた。 「さくらちゃん、もう退院していいんじゃねかと思うんだ」 「そうですよね、先生! この前の検査結果も良好だし、状態も安定しているし。今後のことを相談して退院日を決めましょう」 「ちょっと寂しい気がする」 「先生、Mだものね。回診の楽しみが減って残念ね」 「……んなこと間違っても子供の前で言うんじゃねぇぞ」 「あら、失礼」  フフッと笑った看護師長と一緒に柴はさくらちゃんの病室に向かった。この所さくらちゃんはベッドに横たわらず、スリッパを履いてバレエのようなダンスをしていることが多かった。 「おはよう、さくらちゃん。練習熱心だな。直ぐにプロになれるぞ」 「柴ワンコ先生にバレエが解るの? 私、こんな心臓じゃなかったらきっと世界一のプリマよ」  先日、日本人の高校生がスイスの国際バレエコンクールで優勝した、というニュースを見てからさくらちゃんはすっかりバレエに魅せられたらしい。母親が言うには、髪を結い、純白の衣装でスポットライトを浴びながら踊る姿が妖精のように思えたらしい。 「……プリマって?」  ハムくらいしか思いつかねぇ、と呟く柴の脇腹を看護師長が小突いた。 「主役を演じるバレリーナよ! 最上級のバレエダンサーのこと」 「へぇ。夢があっていいねぇ」 「夢と言えば夢ね……」  小声で会話していた二人は滑るように寄って来たさくらちゃんに笑顔を向けた。 「さくらちゃん、退院だ」 「本当に?」 「あぁ。この前の検査結果も良いし経過も良好。定期検査の予定を立てねぇといけねぇから、明日直ぐに退院って訳にはいかないけど……そうだな。四日後、金曜日退院ってどうだ? 土日家でゆっくりして、来週月曜日から学校」 「いいわ、いいわ! 友達にメールしておく! 金曜日に退院するって!」  喜び飛び跳ねるさくらちゃんを落ち着かせようとしながら柴は母親に頷いて見せた。 「先生、本当にありがとうございました」  涙目になる母親に「パパにメールして」とせがみながらさくらちゃんはパンと手を叩いた。 「そうだ! 先生、私に退院祝の花束をちょうだい! 大きくて素敵な花束! 看護師さん達にあげなくなったって噂だけど、私にはくれるわよね?」  無邪気な笑顔で問われて柴は返事に窮した。 「先生?」  どうしたの? と顔を覗き込まれ、柴は慌てて頷いた。 「も、も、勿論! この前のよりもずっとイイ花束を準備する」 「約束よ! 柴ワンコ先生、大好き! これからもずっとずっとよろしくね!」 「あ、あぁ」  柴は場に居辛くなって手早く話をまとめると廊下に出た。速足で後を追ってきた看護師長に腕を掴まれた。 「先生、やっぱり花屋の店長と一悶着あったのね?」  看護師長に柴は首を緩く左右に振って見せた。 「い、いや、その……あぁ……約束しちまった」 「先生は押しに弱いのよねぇ。近くに他の花屋は無いわよ?」 「……マジ?」 「マジ」  金曜日は朝から夕方まで勤務だ。さくらちゃんの退院はおそらく昼になるだろう。切り花を前日に買っておくのは気が引ける。ネットで注文する手もあるが、どんな花束になるか不安だ。あの店長の花束を知るさくらちゃんが納得するような花束を作れる花屋を柴は知らない。 「……なぁ、看護師長」 「なに?」 「花屋の店長、何で病院辞めた?」 「本人に聞けば?」 「聞いたけど『言いたくない』って拒否された」 「それを私の口から聞く訳?」 「ダメ?」  困った表情で柴が立ち尽くしていると看護師長は深い溜息を吐き、エレベーターホール脇にある自動販売機コーナーに入った。柴ワンコの眼差しに負けた、とでも言うように話し始めた。 「千条先生は病院を辞める前、外科の入院患者だった医大生と関係を持ってたのよ。彼が退院した後、家庭教師として時々家を訪ねていたらしいわ」  柴は缶コーヒーを買い、看護師長にひとつ渡した。無言だった。 「千条先生は手術の腕が良くて院長の自慢だったの。この病院の外科手術の殆どを千条先生が担当していたわ。それだけじゃない。他の病院に招かれて出張手術もやっていたの。院長も一緒に行ってた。自慢の医師を連れ歩くのが趣味の院長でね。千条先生は若い医師達相手に講義をしたり、公開手術なんかもやっていたわ。いわば新城北総合病院の顔ね」 「すげぇ……」 「ルックスも良いし、不愛想だけど診察は丁寧だから患者の評判も良かった。ヘビ顔で少し怖くてミステリアスな雰囲気の先生は看護師の間でも人気だったのよ。まぁ、ゲイだったから何人もの看護師が泣かされたけれどね。リサーチ不足で思い入れた看護師の方が悪いと言えば悪いんだけどねぇ。それはいいとして。公私共に充実していた先生なんだけど、恋人を失ったのよ。ある日、突然ね」 「病気?」 「いいえ、交通事故。先生の恋人はバイクに乗るスポーツ堪能な青年だったの。バイクで大学から帰宅途中に赤信号に突っ込んできたトラックに轢かれたの。運転手は酒を飲んでたそうよ。ヘルメットもバイクもメチャクチャ。体だけじゃなくて頭部や顔の外傷も酷くて誰だか判別できない状態。救命到着時は心肺停止で先生達が必死になって蘇生を試みたけど手の施しようがなくて、そのまま死亡。交通量の多い道路で起きた事故で、広範囲にバイクの破片や荷物が散乱してしまって警察でも身元の特定に苦労したの。身元不明の遺体としてしばらく安置されていたわ」 「……先生は診た?」 「先生は外科よ。運び込まれた時に身元が解っていて先生の手が空いていれば声が掛かったでしょうけど……。千条先生はその日、手術で夜中まで手術室に籠りっきり。翌日も朝から緊急手術を担当して、終わってから院長と一緒に県外の病院へ出張手術と講義に行ったの。バイク事故の死亡患者が千条先生の恋人だって判明した時に先生はこの病院に居なかった。救命の先生達が連絡を取ろうとしたけど千条先生が手術中だったり講義中だったりして繋がらなくて、千条先生から折り返し連絡が入った時には救命が出払っていたりで……。千条先生が恋人の死を知ったのは事故から半月後。大切な人を治療できなかったばかりか、死に目にも会えず、通夜も葬儀も出席できなかった。関係が関係だから相手のご両親に挨拶に行く訳にもいかず、線香の一本も上げられなかった。それが医師を辞めた理由よ」 「……」 「言いたくないって千条先生が言うのも解るでしょ?」  看護師長は柴の肩をポン、と叩いてからナースセンターへ戻って行った。 「……アイツ」  言葉が出て来なかった。「何故辞めた?」などと軽々しく聞いた自分が恥ずかしくなった。大切な人を失う辛さ、医師として感じる無力感と絶望を知っているのに何故、相手にもそういう過去があるかもしれない、と配慮できなかったのだろう。 「あ~! 俺ってサイアク! デリカシー無さ過ぎ! だから子供だって言われるんだ。……さくらちゃんの退院祝いの花、注文になんて行けねぇ」  柴は自動販売機に頭を付け、耐え切れずにガンッと拳を打ち付けた。  今回は人生最悪の失恋だった。
作者