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第10話

 どんなに優秀な医師でも色恋沙汰に関する特効薬は処方できない。大抵、時間が解決してくれるが柴の場合は時間が無い。さくらちゃんの退院日は明日の昼に迫っていた。 「やべぇ、やべぇよ!」  とても花屋に行く勇気はなく、だが良い花屋を探す時間も無くて柴は頭を抱えていた。  もう直ぐ午後の外来診察が始まる。それが終わると一日が終わる。 「どうする、どうするよ!」  狭い檻の中の猛獣の如く医師控室内を右往左往していた柴の視界の端にある物が写り込んだ。ファックスだった。 「そうか! 店に行かなくても注文できる!」  何故、こんな簡単なことに気付かなかったのか。  道は開けた、とでもいうように柴はペンを取った。 「十歳の大人びた少女の退院祝い用の花束。予算は……五千円にすっか。注文者は……」  柴の手が止まった。  注文者の名前と連絡先をどうするか迷った。自分の名前と携帯電話の番号にするか、病院の名前と連絡先だけにするか。そんな事を悩んでいるうち、ある事に気が付いた。 「……あ! 受け取り……」  花束は受け取りに行かなければならない。結局、花屋に行かなければならないのだ。 「……明日の朝、だよな。誰かに頼むか?」  医師控室を見回したがどうやって頼めばいいだろう。何故、自分で取りに行かないのか、と尋ねられた時の返事に窮するのは目に見えている。 「う……うぅぅ」  椅子に座り、ペンを掴んだまま頭を抱えて暫く動かなかった柴だが、ガバリと顔を上げると意を決したように頷いた。いつまでもグダグダと考えるのは性に合わない。出たとこ勝負。そう決めた。 「俺が注文するんだ。俺が取りに行く。ファックス見るのがアイツとは限らねぇし、バイトも居るし、大丈夫だ。うん。きっと大丈夫に違いない」  他の花屋を探す暇はないし、逃げるような真似をするのは嫌だった。 「大丈夫。俺の普段の行いは良いから、きっと大丈夫」  祈るような呟きの後、柴はファックスを送信した。  送信完了の表示を見てから少しスッキリした気分で午後の外来診察に出た。  このファックスを店長が受け取ったことを柴は知らない。  更に柴の注文を受けたことで、ここ暫くアルバイト店員が声を掛けるのを躊躇するどころか出勤することさえ億劫に感じるほど悪かった店長の機嫌が治ったことも柴は知らなかった。  そして迎えた翌朝――。  緊張の面持ちで柴は花屋の入口をくぐった。 「いらっしゃいませ」  女性のアルバイト店員が出迎えてくれた。 「あ、柴先生ですね。申し訳ありません。実はまだ花束、出来上がっていないんです」 「え?」  頭を下げる店員に間抜けな声を向けた柴はどうしたものか、と頭の後ろを掻いた。 「予定していた花の入荷が遅れていて仕上げられなくて……。こちらからお届けにあがりますのでお時間いただけますか?」 「そ、そっか。じゃ、会計だけ先に頼む」 「申し訳ありません」  店長の姿は見えなかった。いつもと変わらない花と緑に溢れた店内なのだが、何か物足りないように感じた。  支払いを終え、本館一階にある総合受付に花を届けるよう依頼した柴は手ぶらで病院に向かった。 「……居なかったなぁ」  ホッとしたが、寂しい気がしたのも確かだ。複雑な気持ちになるということは、未練があるということだ。  店長は好きだがフラれた。フラれた理由は「医師」だ。更にデリカシーの無い言動で印象は最悪だ。でも店長が気になる。どうしたらいいのか解らないし、解決に繋がるような切欠もない。 「なんだよ、このモヤモヤ。二日酔いよりタチが悪ィ」  髪型が乱れるくらい頭の後ろを掻いた柴は憮然とした表情で朝の回診と午前の外来診察を終えた。  さくらちゃんの退院は正午だった。  手続きや会計はもっと早く終わっていたが、さくらちゃん自身の希望で昼まで病院に居た。勿論、柴を待っていたのだ。 「さくらちゃん、退院おめでとう」  大勢の看護師と一緒に柴はさくらちゃんの退院を祝った。総合受付に届けられていた花束をさくらちゃんに贈る。 「うわぁ! この前よりもずっと大きい!」  今回の花束は濃いピンクのバラと純白のカスミソウで作られていた。包装紙は葉と同じ緑、手元のリボンはバラと同じピンクだ。  大袈裟に見えがちな大きなバラの花束だが、バラの花が小振りで全体の色合いも限定されているので派手さはあるが綺麗にスッキリとまとまっている。茎も短く切られていてさくらちゃんの腕に収まる花束だった。 「……やっぱ、スゲェ」  花を贈る相手のことを配慮した作りであること、かつ、ファックスには何も書かなかったが黄色の花が含まれていないことから作り手が店長であると解る。「さくらちゃん退院おめでとう」というメッセージカードが挟まっていたのが何よりの証拠だ。 「朝、まだ出来上がって無かったのは……」  あの店長は注文者の顔を見てから花束を作る。決して作り置きしない。彼は奥に居たに違いない。柴の胸の内を配慮したのか、それとも店長自身も顔を出し辛いのか。どちらか解らないが、彼は確かに自分の顔を見て最後の仕上げをし、素晴らしい花束を作ってくれた。自分以外の誰にも売る事ができない、唯一無二の花束を作ってくれたのだ。  きっと、まだ繋がっていて望みはある。  何故かそんな風に思えた。  柴はフッと笑った。胸の中の蟠りが解けた気がした。 「先生?」  花束を受け取ったさくらちゃんに顔を覗き込まれ、柴は現実に戻った。 「あ、いや。退院おめでとう。いつでも来いって言ったら変だな。あ、でも、来るなって訳じゃねぇよ? 何かあったら遠慮無く言ってくれ。さくらちゃんの為なら何でもするから」 「うふふ! 忠犬ハチ公……いえ、忠犬柴ワンコ先生ね! 何もなくても連絡するわ。時々、顔を見に来てあげる! 誕生日プレゼントも取りに来てあげるからね」 「わ、解った……」  最後の最後まで上から目線のさくらちゃんは父親が運転する車で病院を去って行った。車が通りの向こうへ去って行くまで見ていた柴は横に並ぶ看護師長に声を掛けた。 「行っちまった」 「退院してくれないと困るし、こうして笑顔で見送れることは良いことなんだけど寂しいわ」 「だな。さぁて、飯食いに行くか」  パンッと手を叩いて踵を返した柴だったが腕を引かれて足を止めた。 「花、どこで買ったの?」 「あ? そこの花屋だけど?」 「あら、そう」 「な、なんだよ」 「いえ、今は妙にすっきりした表情だなぁ、なんて思ったのよ」  看護師長の観察力は恐ろしい。柴は視線を泳がせ、歩みを再開した。背中に看護師長の声が飛んでくる。 「ナースセンターに飾る花、もう、とっくに枯れてしまってるわよ!」  柴はその言葉に手を振って応じると職員用レストランに向かった。

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