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第12話

「う、あぁぁ……」  救命救急の医師控室で柴は情けない声を上げ、ソファに倒れ込んだ。 「み……水……」  指を動かすことさえ億劫なほど疲労困憊していた。足も腕も棒のようだった。汚れた手術着を何とか脱ぎ捨て、柴はペットボトルに口を付けた。 「お疲れ様でした、柴先生」 「休みだったのに応援悪かったねぇ」  同じようにソファや椅子に倒れ込む救命救急担当の医師達に礼を言われ、柴は手を振って苦笑した。声を出すのも嫌なくらい疲れていた。  水を飲み、目を閉じて脱力する。固くて狭いソファが高級ベッドに思えた。 「柴先生、弁当何が良いですか? メニュー、壁に貼ってます」  救命救急の研修医が尋ねて来た。彼は電話の前で皆の注文を聞いていた。 「メニュー?」 「その弁当屋、二十四時間営業でウチの御用達なんです。電話で注文すれば配達もしてくれるんですよ。例え日付が変わる時間でも。ウチ、お得意様だから」  笑う研修医の言葉を聞いて柴はガバリと起き上がった。  時計を見た。後三分で日付が変わるところだ。 「うわ! ヤベッ! 悪い! 俺、帰る!」 「え?」 「帰るって、先生……」 「柴先生、弁当くらい食べて行ったらいいのに。奢るよ。ほら、今度、先生がこっち来るのに合わせて色々と話を……」  どうやら救命救急では柴が異動してくることになっているらしい。  仲間として迎え入れようという医師達の好意を無視して柴は駆け出した。 「ヤバイ、ヤバイ! 日付変わっちまう!」  暗い病院内を全力で走り、医師控室に駆け込んで紙袋を引っ掴む。エレベーターを待つ暇も無く、階段を駆け下りた。 「あ、正面入口閉まってやがる!」  失敗した、と舌打ちし、警備員が居る裏口へ走ると挨拶もそこそこに外へ走り出た。  十二月の夜は寒かった。  真っ白な息を吐きながら花屋を目指した。当然のことながら店は閉まっている。 「裏……裏……あ、こっちか」  店の周りを不審者のごとくうろついて裏口を見付け、インターホンの前で柴は足を止めた。華やかな表とは違い、マンションのドアを思わせるシンプルな玄関だった。「千条」という表札を確認してからインターホンを押した。 「……居るかな」  応答を待つ時間が異様に長く感じられた。二度鳴らす勇気がなくて指をボタンの上に置いたまま硬直していると、カチャリと玄関の鍵が開く音が聞こえた。 「……何時だと思っている?」  店長の第一声はそれだった。冷たい視線に負けそうになったが、柴は花束を両手で持つと紙袋を投げ捨て、一歩前に進み出て宣言した。 「志貴! 俺はお前が好きだ! この前、断られたのは覚えてる。でも、好きなんだ。辛い思いをして医師を辞めたのも聞いた。似た経験をしているのにデリカシーの欠片も無く軽々と尋ねた俺はバカだ。それに俺は医師だ。恋人を最優先にできるような男じゃない。でも解ってくれ! 俺はお前が好きだ。そして医師であることも誇りに思っている。今日もお前の誕生日に合わせて告白しようと朝から準備してたけど、救命から呼び出しくらって仕事を優先しちまった。恋人になってもこういうことは何度もあると思う。下手したらセックスの最中に呼び出し電話に出ることだってあると思う。でも、俺は医師だ。兄貴を助けられなかった情けない医師だけど、それでも医師だ。患者を大切に思う一人前の医師になりたいんだ。でも、お前の恋人にもなりたい。医師の恋人は要らん、というお前の恋人になりたいんだ!」  真正面から店長を見据え、一気にそう言うと柴は頭を下げた。 「受け取って欲しい。俺の精一杯の想いだ」 「……」  場に静寂が戻る。柴は店長が応えるまで不動だった。  長い沈黙の後、クッと店長が喉で笑った。 「し、志貴?」  頭を上げるか否か迷った柴は首を少しだけ傾けて横目で店長を見た。肩を揺らして笑いを堪えている店長が見えた。 「な、なんだよ」 「お前……この花束の意味が解っているのか?」 「ブライダルブーケ専門店で注文して買って来たんだ! 意味は百も承知だ」 「フッ……仏滅の十三日の金曜日にダズンローズを想い人に渡す男が居るとは思わなかったぞ」 「だ、だから、それはだな!」 「いいから入れ。医師が風邪をひいたら笑い話にもならん」  店長はドアを全開にしてくれた。一瞬、躊躇した後で柴はゆっくりと足を踏み入れた。二階に続く階段が目の前にあった。上がれ、と言われ、柴は先に階段を上った。  二階はキッチンとリビングダイニングが繋がった二十畳ほどの広さの部屋だった。柴はリビングのソファに腰を下ろし、対面式のキッチンへ入って行く店長を目で追った。 「コーヒーでいいか?」 「あ、あぁ」  いい、と答えかけた柴の腹が豪快に鳴った。今日は朝食もろくに食べていない。店長はクッと喉で笑うと冷蔵庫を開けた。 「私の誕生日に合わせて告白に来る予定が、化学工場爆発事故のせいで病院に呼び出され、食事も抜きで対応していた……ということか」 「よ、よく解ったな」 「事故はニュースでやっていた。ここは病院の隣だ。あれだけヘリや救急車のサイレン音を聞けば元医師でなくても何かあったと解る。パスタでいいなら作ってやるぞ」 「……悪い。待てねぇ。カップラーメンか何かねぇ?」 「恋人が手料理を作ってやろうと言っているのにカップラーメンを出せとはよく言えたものだな」 「だって腹減って死にそう……って、今、もしかして『恋人』って……」  柴は腰を浮かせた。手にはまだ花束を持っている。それと店長を交互に見ながら柴はゴクリと唾を飲んで返事を待った。 「黄色い十二本のバラを持って、激務の後に頭を下げに来た男の想いを受け取らないような冷たい男に見えるか?」  黄色い花に込めた柴の想いは通じたらしかった。 「あ、あの……俺で……俺でいいのか?」 「?」 「俺、空気読めねぇし、志貴が言いたくないって言った事を梅岡看護師長に聞くような奴だし、デリカシーねぇし。それに医師だし、男だし……」  パントリーからカップラーメンを取り出す店長は口角を吊り上げる笑みを浮かべ、やかんを火に掛けながら言った。 「よく自覚しているじゃないか。それはそうだが顔は私の好みだし、馬鹿正直な性格は嫌いじゃない。嫌な客の注文をきくような私ではないよ」 「え、それじゃ……『医師の恋人は要らん』って言った後も俺のこと……」 「たかだか一度断られたくらいで諦める程度の想いなど信用ならん」 「アンタ……お、俺を騙した?」 「騙したとは人聞きの悪い。強いて言えば試した、かな」  店長の笑みが勝ち誇っているように見えた。この上ない敗北感に見舞われた柴は唇を尖らせて聞いた。 「さくらちゃんの花束を取りに行った時、なんで出て来なかったんだよ。店の奥に居て、俺を見てたんだろ? すっげぇ勇気が要ったんだからな。店に顔出すの」 「……花束の注文にお前が直接来ていれば手渡ししたが、ファックスだったからな。お前の真意を測りかねた。それに……」 「それに?」 「三顧の礼、という言葉があるだろう?」 「いや、それ違うから。三顧の礼って目上の人が年下の者の所へ三度訪ねて頼みごとをするって奴だろ? アンタの方が年上だ」 「意外に細かいことを気にするんだな」 「俺のこと、どんだけテキトーな奴だって思ってんの?」 「湯が沸いたぞ」 「あ、無視した」 「要らないのか? カップラーメン」 「要る要る。早くくれ! 腹減って死にそう」 「待て、を教えてやろうか? 柴ワンコ」 「食った後なら調教でも何でも受けるから、今はとにかく早くラーメンくれ! マジで死んじまいそうだ! あ、何かもう一品ねぇ?」 「……三分経ってから食べるんだぞ。食べている間に野菜炒めでも作ろう」 「肉多めで」 「注文が多いな」 「だから腹減ってんだってば!」  ホッとしたことも手伝い、異様に強く空腹を感じた。何とも色気の無い夜だ。だが、これまでで最高の夜に思えた。  カップラーメンと箸を受け取りながら長身の恋人を見上げ、柴は屈託ない笑顔を作った。 「なんか、俺、すげぇ幸せ」 「カップラーメン一個で幸せを感じられるとは安上がりだな」  頭をポンポンと撫でられた。しかし文句を言う気力はない。柴は時計を凝視しながら人生で最長の三分を待った。 「いただきます!」  至福の時間を迎えた柴は部屋に漂う香りに目を細くしながら麺をすすった。 「うわぁ、堪んねぇ! ラーメンだ。邪魔されずに食えるって最高!」 「よく噛んで食べるんだぞ」 「三十回も噛めねぇよ。肉炒め早く頼む」 「……野菜炒めだ」  呆れたように答えた店長がフライパンを持つのが見えた。  他愛ない遣り取りがこれからも続けられる。そんな小さな幸せを柴は心から喜んでいた。

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