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第13話

 喉が渇いて寝室を出ると、リビングにはついに口を付けることのなかったコーヒーの香りが残っていた。彼のカップを覗いて見ると中は空で、彼がこの家を出る直前に飲み干したのだと知り鼻の奥が酸っぱくなるのを感じた。私はきっと、確かに彼に惹かれていたのだ。あれほどの魅力を惜しげもなくまき散らしているのだから、惹かれるなという方が困難だったのだ。彼は人を惑わす、美しい魔性の男なのだから。  しばし安っぽい感傷に浸っていると、彼の出て行ってしまった扉の開く音がして反射的に顔を上げた。そして心はたちまち期待と喜びに染め上げられた。私の目の前に、彼がいるのだ。両手にコンビニのビニールを提げて、幻でなく地に足をつけてそこに立っているのだ。 「帰ったのかと思った………」  言うと彼は、いや、と笑う。 「飯食ってなかっただろ、腹が減って。いろいろ買ってきたから、食おう」  彼は私の腰に片腕を回し額に唇を押し当て、ソファに座るよう促した。そしてビニール袋の中からカップ麺やおにぎり、フレッシュサラダ、ソーセージや唐揚げやミックスナッツ、シュークリームとチョコレートケーキにパンとジュースや酒など、とてもふたりでは食べられない量をひとつずつ取り出してテーブルに並べた。 「こんなにたくさん」 「これだけ買えば、ひとつくらいあんたの好きなものもあるだろ」  こともなげに呟かれたそれに、この男は私の為だけに尽くしてくれたのだと己惚れた想いが胸に満ち、愚かでふざけたことを言い出してしまう前に、ありがとう、となんとかお礼をするだけに留めた。彼は缶ビールを開けるとそれを勢いよく飲み下す。あんなに空腹だったのに、私は胸がいっぱいになってしまってあまり食べる気が起こらなかった。けれど彼の好意を無駄にしたくはなくて、チョコレートケーキに手を伸ばした。 「成人はしているんですか?」  手持ち無沙汰を誤魔化すように訊ねれば、彼はビールの缶を振りながら「ああ」と答えた。あの見てくれで未成年だと言いはるのも恐らく無茶な話で、高校の制服を着ていても、その姿に酒と煙草はお似合いだった。 「してる、二十歳」 「二十歳?」  まさか、と口をつく。もっと多くの歳を重ねていると思えてならない。私と八つも差があるなんてとても思えなかった。 「駄目? 二十歳じゃ」  彼は悪戯に私の頬を擽りながら、揶揄の匂いを孕んだ意地の悪い笑みを浮かべた。いったい何が駄目なのか、それを確認したかったけれど私は大人しく首を横に振り、駄目じゃない、としおらしく答えてみせた。 「そう」  彼は吐息混じりの相槌を返して、テーブルに放ってあったリモコンに手を伸ばしテレビのチャンネルを切り替えた。  不意に(本当にほんの束の間、ほんの一瞬だけ)今までも彼とこうして過ごしてきた錯覚に陥った。当たり前のように、違和感や不快感を微塵も感じさせず、いとも容易く彼の存在が私の中に入り込み、それが不思議なほど心地よくて戸惑った。自らが既に、無意識下に彼の存在を受け入れようとしていた。その現実を飲み込むのに私は少なからず動揺していた。  テレビのチャンネルは深夜のニュース番組でとまる。彼はそれに真剣な眼差しを向けていた。誘拐事件や立てこもりも屡々、強盗や殺人、自殺に至っては毎日だ。これで日本は治安がいいと言われるのだから驚いてしまう。そういえば彼は先ほども、同じようにニュースを見ていた。至極真面目な表情で、情報のひとつをも取りこぼさぬように。 「久留須くん」 「うん?」  返事はしてくれるものの、彼の意識はテレビに向いている。 「テレビ、好きなんですか」  うん、と彼は頷く。 「情報は大事だ」  求めていた答えとは異なる気がして、私は首を傾げた。 「私よりも?」  ほんの少しだけ熱を込めてそう聞けば、彼はやっとテレビから目を離し、私に関心を向けた。 「なんて答えて欲しい?」  そう言う彼の瞳は意地悪く歪んだ。わからない、私は答える。幸福だった。まるで愛し合う者同士で行われる他愛もない戯れのようで、形のない言葉を信じられるだけの強さが、彼といる間の自分には備わっている気がした。

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