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第20話

「……………雛菊」  静かに、だけど確かな輪郭と温度を持って名前を囁かれ、一文字ずつを記憶に刻み込みながら、はい、と雨音に負けてしまいそうなほど小さな声で返事をした。 「………なまえ」  声を発したけれど、喉が掠れて上手く紡げない。彼は控えめに首を傾げて、うん? と問いかけた。 「なまえ……………」 「名前? 雛菊?」 「うん………」 「雛菊」 「知ってたんですね、私の名前」 「学校でみんながあんたを呼んでる」 「そうなんだ………」  そしてそれをあなたが気に留めて、覚えていてくれたことが嬉しい。 「もっと呼んで」 「……………雛菊」  私が生まれる前の両親の話では、もっと男らしい名前になる筈だったらしい。けれど生まれた瞬間、分娩台の上で母(彼女はいつも衝動的で剛毅な人だ)は私の顔を見るなり「雛菊」と呟き、そしてそのまま名付けられた。幼少期はよく女の子に間違えられて他人から心ない言葉を浴びせられることもしばしばあるにはあったが、中学に上がる頃から身長が伸び肩幅も出てきて、身体つきはみるみるうちに男へと成長した。しかし容姿が他より女性的であることはあまり変わらず、思春期はその容姿と名前に苛立ち悩んだこともあった。図書司書をしている弟は「雛は女性を表す漢字なのに」と、この名に不服に感じているらしく、家族でただひとり彼だけは私を「菊」と呼んだ。  名前を巡ってはいい思い出も悪い思い出もあったけれど、不思議と今では気に入っている。母は今でも私に会う度、名付けに間違いはなかったと大威張りで胸を張るものだ。愛情をもってつけられたからこそ、この名を愛せたのかも知れない。愛情を持って、呼ばれるから。 「雛菊」  何度も囁く彼の顔を両手で包み、眉尻と口元のピアスに触れた。どれもシンプルで艶々していて、それらは既に彼の身体の一部になってしまったように整然とそこにあった。そのひとつひとつに目を配り指先で触れていると、その手を取られて掌に口づけられた。 「そんな目で見られたら、また抱きたくなる」 「抱いたらいい」 「明日仕事に行けなくなるくらい抱くけど、それでも?」 「それは困ります」 「仕事なんて辞めたらいい」  誰と寝たときも、セックスの後の甘やかな戯れじみた会話は心地よくて好きだった。頭のてっぺんから指先から、まるで本当に心の底からの愛が溢れ出しているように感じる。例えばそれが身体だけの関係だったとして、セックスの後の束の間の時間だけは、互いになくてはならない存在なのだと気兼ねなく勘違いができるのだ。 「あんたひとり養うくらい、なんともない」  彼から発せられた言葉に、ふと笑みが漏れた。顔に似合わず幼く可愛らしいことを言うものだ。 「そんなことを言うと、まるで未来を約束した恋人同士みたい」  この一晩は、互いにとってほんの些細な戯れ事。彼に重たい気持ちを背負わせて、私と過ごす時間を苦に感じてしまうなんて不本意だ。それなのに彼の表情は瞬く間に強張り、私の手首を掴む手がきつく握られた。 「俺はそのつもりだった」  揶揄の色のない、真剣な眼差しを向けられた気がした。これだから若さとは恐ろしいのだ。傷付くことを知らず、せっかくこちらが引いた予防線を軽々と飛び越えてしまう。  酷なことを言ってしまったかも知れない。もしかすると私の軽率な一言は、彼を深く傷つけたのだろう。しかし彼の言葉を簡単に信じてしまうのも、いつか私自身を傷つけそうで恐ろしかった。人の気は移ろうものだ。幼い時分の人の心は、まるで四季のように目まぐるしく移り変わる。そうなってしまえば、今まで貰ったどんなに綺麗な愛の言葉も、優しさに溢れたセックスも、すべて過去の産物になってしまうのだ。私はそれが恐ろしくて堪らない。互いにとって最良でなくとも、私は彼との関係をただただ長く続けていたいのだ。少しでも長く、彼との時間を共有していたいのだ。  彼は大人びていた。しかし成人したばかりの二十歳だということを「大人」の私は忘れてはいけなかった。羽化して間もない、まだ青さの残る彼の言葉を鵜呑みにできるほど私の心は純粋ではなくなって、年を重ねることの脆さをまざまざと見せつけられた。

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