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第23話
ふたりで軽い朝食を済ませて、身支度を整えると連れ立って家を出た。鍵は私しか持っていないし、さすがに彼ひとりを家に置いておくわけにも行かない。一度自宅に帰るという彼と人目を忍びながら駅までを歩き、私が電車に乗るのを彼はホームから見送った。痴漢に気を付けて、と彼は冗談めかして言ったけれど、実際に何度か被害に遭っていたのでうまく笑えなかった。電車のガラス越しに彼と目が合い互いに小さく手を振って、私は束の間の別れを内心酷く惜しんだ。そんなことしてはいけないとは承知の上だけれど、学校まで彼とふたりで歩くのもいいかも知れないなどと考えた。ぎゅうぎゅう詰めの車内でなんとか自らの居場所を確保して二駅をやり過ごし、痴漢に遭うこともなく無事に職場へ辿り着いた。
この学校へ赴任してくる際に持参したコーヒーメーカーで珈琲を淹れるのは、既に日課になっていた。保健室に相談に来た生徒にたまに振る舞っているから、カップはふたつ用意してある。
養護教諭というのは見た目よりずっと忙しいことを私はこの職に就いてからはじめて知った。保健の授業は勿論私がしなければならないし、毎月の保健だよりや提出文書の作成、新学期には健康診断の日程を決めたりと思いのほか忙しい。保健の授業に関しては、とても素敵とは言えない熱血を絵に描いたような体育教師とミーティングをしなければならないのが、私にとって最大の苦痛だ。後の仕事は頭を捻ればそれなりにこなせるし、さほど苦でもない。
「ヒナちゃんせんせー、おはよー」
「おはようございます。今日も元気ですね」
バレー部の皆元は毎朝律儀に顔を覗かせる。登校のない土日を除いて、ほとんど欠かさずに。睨めっこしていた書類から顔を上げ彼女の佇む窓辺へ寄ると、皆元は満足そうに鼻を鳴らした。そういえば以前に、皆元は蛇岐を不気味だと言っていた。そんなことを不意に思い出し、ひっそりと心の内に覗く不思議な優越感に苦笑が込み上げ、それを咳払いで誤魔化した。
一生懸命な彼女のお喋りを話半分に耳を傾けていると、その後ろを音もなく眩しい金髪が横切った。その金髪の持ち主である蛇岐は私とほんの一瞬だけ視線を絡ませると、軽く手を上げて颯爽と校舎へ消えて行く。そんな所作ひとつとっても、彼はいちいち私を夢中にさせるのだ。顔がほころぶのを抑えられない。それは確かに一瞬の出来事だったのに、皆元は突然黙り込み、私の顔をまじまじと見つめた。
「ヒナちゃんせんせー、何かいいことあった?」
ぎくりと心臓が跳ねた。そして皆元は私の視線の先を追う。しまったと思う。露骨に顔に出したつもりはないが、彼を目の前にした私は、たちまち無防備になってしまうのだ。
「さあ、どうでしょう………」
言葉を濁して(しかし正直に言ったも同然だ)答えると、皆元はつまらなさそうに、ふうん、と呟いた。
「先生は、久留須くんのことどう思う?」
突然放たれたその名に、私は内心狼狽えた。手のひらに汗が滲み、しかしそれを悟られないよう、平常心を心掛けた。
まさか今の蛇岐との一瞬で、皆元は何かと感じ取ったのだろうか。昨夜からの一連の出来事を素早く振り返り、他人の目に触れるようなことはあっただろうかと考える。いや、そんなはずはないと自らに言い聞かせるも胸はたちまち不安に支配され、慎重に皆元の次の言葉を待つほかなかった。
「久留須くんのあの金髪とピアス、どの先生も何も言わないんだよ」
不満げに告げられたそれに、え、と呆けた声が漏れた。なんだ、そんな下らないことか、と。
「急に編入してきたし、授業も真面目に受けてるとこ見たことないし、しかもあんな見た目なのに先生たちは誰も何も言わないし。久留須くん、あんまりいい噂ないよ」
皆元は急速に不機嫌になり、苛立ちを隠そうとしなかった。それどころか、まるで見せつけるように次々と蛇岐への不満を口にした。
「顔も恐いし、あんなに身体も大きくて、きっと先生たちを見下してるんだ。だって体格じゃ誰も敵いそうにないじゃない? きっと前の学校で問題を起こして退学になったから、急にここに編入してきたんじゃないかってみんな言ってる。運動部の先輩からはちやほやされてるし、調子に乗ってるんだよ、たぶん」
ひと息に言い切ると、皆元は口を歪めて興奮したように鼻を膨らませた。私はそれを半ば呆然と眺めていたけれど、この上ないほど最低な気分だった。まさかこんな小娘に蛇岐を非難されることがあるなんて。学校という狭い世界の中でしか蛇岐を見ていない彼らに、一体なにが分かるというのか。まったくもって下らない。なんて腹立たしい。
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