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第25話

 デスクに向かい、たまに生徒と触れ合って、ひとり屋上へ赴き煙草を吸う。ただの毎日の繰り返しなのに、気持ちはこんなにも晴れやかで満たされているのは一重に彼のおかげだとしみじみ思う。恋人らしい存在なんて今までもあったけれど、こんなにも胸を焦がし、躍らせるなんてことがあっただろうか。もしかしたら十代の時分にはあったかも知れない、思い出せないだけで。しかしそれよりももっとずっと鮮やかで、強烈で、恋人という海に自らすすんで身を投じる経験はあっただろうか。むしろ私はそれを愚かしいと思って傍観していた。  それが今やどうだろう。彼と会えない間は時が経つのがやけに遅い。早く退勤時刻になればいいと、そればかりを考える。残業なんてするつもりはなくて、作業能率はいつもの倍だった。仕事量が少なかったのも要因ではあったけれど。  屋上からグラウンドを眺めながら、そういえば彼の連絡先を聞いていなかったのを今更ながらに思い出す。肺いっぱいに煙を吸って、勢いよく吐き出した。笑みが漏れる。しかし何の不安もない、素晴らしい気持ちだ。  終業のチャイムを聞き、部活動が終わるのを見届けてやっと席を立った。帰宅する準備は三十分も前にできている。職員室を出る際、ふと今朝の皆元の顔が脳裏を過ぎった。もう少し言葉を選んでやればよかったかも知れない。折を見て話しをしよう、教師として。そう思い直し、ようやく学校の外へと向かう足取りは軽かった。  駅までの道すがら、彼の為に何か食事を作っておこうと思い立った。彼がこちらへ到着するのは何時頃になるだろう。もしかしたら食事は自宅で済ませてくるのだろうか。しかしながら、母親が用意した食事を食べる彼を想像できない。彼という人間の家族を想像できない。私の中で彼は、すっかり自立した大人の男だった。  足は自然と最寄りのスーパーマーケットに向かっていて、買い物かごを持つ頃には、彼はきっと空腹に違いないと決めつけた。無意識に、口元が緩むのが分かる。自炊の出来ない弟の為に日常的に料理はしていたけれど、これほどうきうきと心弾んだことはない。何も考えず、義務感に駆られて作る料理とはまるで違う。蛇岐には、美味しいと喜んで食べて貰いたい。なるべく新鮮なものを、そして彼が好みそうなものを、手あたり次第かごに投げ込んだ。 「あれ」  浮足立ちながらマンションに帰り着くと、扉の前で黒いフードを被った蛇岐がしゃがみ込んでいた。 「あ、おかえり」 「早かったですね。ずっと待ってました?」  慌てて駆け寄り扉を開錠すると、彼の大きな手がドアノブを握りそのまま扉を開けて、先に私を通してくれた。こういうさり気ない気遣いも、私が彼を好きだと思うところのひとつなのだ。 「いや、十五分くらいかな、用事が思ったより早く片付いて。雛菊こそもっと遅くなると思ったんだけど、随分早かったな」  彼はフードを脱ぐと金髪を後ろに撫でつけ、昨晩同様、手慣れた様子でずんずんと部屋の奥へと進んだ。 「もしかして早く俺に会いたかった?」  彼は悪戯っ子みたいに意地悪く笑う。肯定するのも癪で黙って顔を顰めると、蛇岐はこちらに振り向き笑顔を崩さず「ごめん」と一言謝ると、私の瞼に口づけた。 「早く雛菊に会いたかったから、急いで用事を終わらせたんだけど、俺は」  節のしっかりした指が私の頬を撫で、再び顔が近付くと今度は唇にキスを落とされた。温かく濡れた唇同士が合わさると不思議な安心感に包まれて一気に力が抜けていく。それも崩れ落ちそうなほど強烈に。唇が離れても彼の甘く濡れた瞳はごく近くにあり、その瞳に自らの姿が写っているのを確認すると堪らなく嬉しくなって、今度は私から口づけた。

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