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第29話
もっと男女の付き合いのように、分かりやすければ楽なのに。ひとつの区切りとして、ただの紙切れ一枚で相手を縛り付けておけるような、そんな分かりやすい誓約があればよかったのに。何度となくそんなことを考えた。私は彼を、縛り付けておきたいのだ。
「………仕事って、なに。バイトのこと?」
訊けば彼は眉を下げ、あからさまに困った表情をした。
「………ああ、そう、そうだな」
そして彼は口を閉ざす。嘘でもついてくれたら、きっと互いに楽になれるのに。
所詮、私はそれだけの存在なのかも知れない。彼にとって、たったそれだけの存在なのだ。ずっと一緒にいようだなんて気を持たせることを言いながら、浮気をする人間なんてごまんといる。そんな軽い口約束を安易に信じてしまう方がおかしいのかも知れない。セックスの後のリップサービスを真に受ける私が、そもそもおかしいのだ。特に彼は若くて、性にもおおらかで欲望に忠実だとするのなら、私の存在なんてただ都合のいいものなのかも知れない。けれどそれでも、私自身が彼に溺れているから、突き放してやることすらしてやれない。彼の身体と体温と、その口から発せられる言葉を、世間知らずの娘のように馬鹿みたいに信じていたいのだ。都合のいい存在でも構わない。この関係を長く続けられたらいい。どうにかして少しでも長く、彼を繋ぎ留めておく術を、私は必死に模索している。
「………怒ってる? 雛菊」
大きな身体を折り曲げて、彼は私の顔色を窺う。都合のいい存在を続けるには、彼に充分な理解を示してやらねばならない。
「………いいえ、怒ってなんていませんよ」
私は笑顔を貼り付けた。綺麗だねと言って欲しい。そう願ったけれど、虚しかった。
あまりに虚しい関係だ、ついに恐れていた事態だ。確かに幸福な時間はたっぷりあって、この愛こそが本物だと信じて(言い聞かせて)いるのに、彼と一緒にいればいるほど分厚く高い壁と、途方もない距離を感じた。
私は彼の何を知っているのだろう。どこに住んでいるのか、どんな仕事をしているのか、どんな親がいてどんな生活があって今までどのように生きてきたのか、仕事仲間と称した「獅子雄」が一体誰であるのかも、私は聞けない。彼もきっと答えてくれない。
幸福と虚無の間を、行ったり来たりを繰り返す。彼の囁く愛が本物だと確信している瞬間もあれば、彼が故意に隠した一面を持っていることも知っている。この壁がある限り、彼と私の未来の約束なんて所詮「嘘」に過ぎないのだ。
「………雛菊?」
私の名を呼ぶ彼の声が、虚しく響いた。何度も殺してきた好奇心と欲が、抑えきれないほどぽろぽろと零れ出る。深く詮索してしまえば、彼は私の前から消えてしまうだろうか。それだけは絶対に避けなければならない。彼を離してなるものか、彼を離してなるものか。
「蛇岐………」
自分でも驚いてしまうほど弱々しい声。
「うん?」
彼はいつもどおりの優しい声色で返事をする。それだけを信じて、縋り付いていたい。その他のことはすべて忘れてしまいたい。なかったことにしてしまいたい。忘れたい忘れたい、忘れたいのだ。
「蛇岐、抱いて欲しい、今」
今すぐ私の中を彼で満たして欲しい。目の前の彼だけを信じて、私だけを見ていて欲しい。今ここに存在する事実だけ、他によそ見をしてしまわないように。もっと上手に、もっと深く溺れたい。
「雛菊」
「お願い、今すぐしたい」
訝しむ彼を見ない振りして、ベッドに腰かける彼に跨った。唇を奪って貪って、そうしているうちに勝手に火はついて、後は身を任せるだけだった。知らぬ間に夢中になって、いつの間にか私の中は彼に満たされ潤って、その時だけは疑う隙のない心からの幸福に包まれていられるのだ。そんなことを何度も何度も繰り返した。途中、やっぱり彼は私を案じて何度も行為を辞めようとしたけれど、決してそれを許さなかった。例え私が気を失っても続けて欲しい。熱い切っ先を宛がって、肉壁を割り開いて。もっともっと、夢中に、私の中に、溺れて、溺れて。もういらない、そう思う日なんて来ないように。
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