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第30話
リビングへ続くドアが開いている。情事の途中、いつの間にか本当に気を失ってしまったようで、目覚めてすぐに気付いたのはそんなことだった。隣に彼はいなくて、その代わりにぼそぼそと遠慮がちに紡がれる声に鼓膜がざわついた。きっとまた電話だ。
重くて怠くて痛む身体をゆっくりと動かして寝返りを打つ。相手が誰であれ電話の内容を聞きたくなくて、再び不貞寝を決め込もうと固く目を閉じたときだった。
「――――獅子雄さん」
眠気は一気に鳴りを潜めて、聞きたくもないのに何故かそれだけはっきりとした輪郭を持って耳に飛び込んできた。
「会いたい」
全身が強張り、呼吸が止まる。こんなこと聞きたくなかった。それでも私の耳は余程素晴らしい出来をしているのか、彼の声をひとつ残らず確実に拾い上げた。
「電話、全然出てくれないじゃないですか、何度もかけてるのに。時間つくれますか。すぐにそっちへ迎えますけど」
彼の言葉が進むに連れて、爪先から静かに絶望が這いあがり、それは血管をとおりじわじわと私の身体を侵食した。
彼は嘘つきだ。セックスをする前までは休みだなんだと言っていたくせに、まさか今、彼はこんな無防備に私以外の誰かと会う約束を取り付けようとしている。会いたい、会いたい。今すぐ会いたい、だなんて。
吐き気がした。今、彼との時間を共有しているのは私なのに、その私を差し置いて放ったらかしにしてまで、彼は、あの男に会いたい。「獅子雄」に会いたい。だから何度も電話した。私のあずかり知らぬところで、きっと何度も電話をくれていたのだ。私には連絡先すら訊いてはくれないし、教えることもしてはくれないのに。
胸が痛かった。涙は出なかった。ただ妬みと怒りと悲しみと、暗く濁った感情がない交ぜになって体内を渦巻いた。こんなにもたくさんの感情を持っていたなんて自分でも驚いてしまう。今すぐベッドを飛び出して、彼の電話を奪って粉々にしてやりたい。彼と出会って、関係を持ってどのくらいになるだろう。まだたったの数日だ。それを私は愛だの恋だの、年甲斐もなく世間知らずの箱入り娘みたいに馬鹿みたいに信じきっていたのだ。ああ、最初に思ったとおりだ。結局私は、彼の暇つぶしに付き合わされただけに過ぎない。
こんこん、と開きっ放しのドアをノックされる。不覚にも肩が跳ねた。
「雛菊、起きてる?」
何といったら正解か。何も聞かなかった振りをするのか、それとも怒りを露わにしたらいいのか。結局何も言えずに無言のままベッドに深く身を沈めた。蛇岐は静かに近付いて、枕元に腰かけると私の髪を指先で撫でた。
「雛菊」
強く奥歯を噛み締めた。こんなに悲しくて苦しくて妬みと怒りでぐちゃぐちゃなのに、私は彼に厭味のひとつも言うことが出来ない。彼はきっと初めから私のものではなかったのに、それが分かり切っているのに、彼を責めることもできない。髪を撫でられるだけで、名前を呼ばれるだけで、彼が私に与えるたったひとつの動作それだけで、私は愚かしいほどに幸福を感じてしまう。そしていとも簡単に赦してしまいたくなる。それでも傍にいてほしいと願ってしまう。いつかそれが己の身を滅ぼしてしまうことは、明白なのに。
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