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第31話

「雛菊、ごめん。少し出掛けなきゃならなくなった」  再び心臓が縮み上がる、呼吸するのをぐっと堪えた。 「どのくらいで帰って来られるか分からない」  ごめん、待ってて、と彼は一方的に告げて、床に放り出されていた衣服を素早く身に纏い、まるで慌てたように部屋を後にした。勝手な人、なんて身勝手な人だろう。意識するより早く私の身体は勝手に動いて、玄関で靴を履く彼の背後に立った。 「待っていてなんて言うのなら、行き先くらい伝えてくれたらいいのに」  無意識に険のある声色になってしまった私を彼は振り返り、一度口を開きかけるもすぐには言葉を発さず、そしてため息と共に閉ざしてしまった。 「どうしても隠すんですね」 「雛菊」 「言い訳くらいしたらどうです」  そこからどれだけ待ったって、私の満足する答えを与えてはくれないだろう。愛の後にくるのは、必ず虚しさだ。 「………もう結構です、蛇岐。もういい」 「雛菊」 「もう勝手にして。獅子雄さんのもとへ行ったらいい」 「雛菊」 「出て行って」  彼が出て行ってしまえば、きっと私は泣くのだろう。だってそうだ、繋ぎとめておきたいのだから。都合のいい存在でも、彼に抱かれていたいのだから。そうしている間は幸せだって、まるで馬鹿みたいに信じていられるのだから。  この状況で尚、私は随分と自惚れていた。こう言えば彼は謝って、抱き締めてキスをして(そしてなし崩しにセックスをして)また昨日までのように私は都合のいい存在でいられるのだ。都合よく、いくらでもセックスできる私を彼はここで手放すだろうか。そんな筈はない。悪いと感じていなくても、彼が一言謝って、甘い言葉を囁いて、今日だけは「獅子雄」のもとへ行かなければ元通りなのだから。「獅子雄」には私の知らないところで会えばいい。今のところはそれで許してあげられる。今日だけ、今だけ私を選んでくれたらいい。そうしたらこのどうしようもない男を赦してあげられるのだ。他の男に想いを寄せていても、セックスの相手が私だけじゃなくても、許してあげられる。今この瞬間だけ、私を選んでくれたらそれで充分だ。 「………ごめん」  その一言に、からだは緊張から一気に解放される。安堵した。 「雛菊、本当にごめん」 「………いいえ、」  許してあげる、そう告げようとした。 「行ってくる」  無情にも、目の前で静かに扉は閉ざされた。あまりにも呆気なく、彼は目の前から消えた。私は何も言えず、その扉を開けて彼を追いかけて縋りつくことも出来ず、見慣れた自宅のドアを瞬きもせずに見つめていた。その場で泣き崩れることも、喚き散らすことも怒りを露わにすることもできず、呆然と、ただ自らの呼吸だけを聞いていた。耳鳴りがするほどの静寂の中で。

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