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第32話

 どのくらいそうしていただろうか。生温い空気の中で私は裸のまま玄関に立ち尽くしていた。意識が呼び戻されたのはリビングで私の携帯電話が音を立てたからで、束の間、蛇岐からの連絡かと期待したけれど、私たちはお互いの連絡先を知らない。すっかり冷えてしまった身体を抱えて液晶を覗けば、そこには「榊」とよく知った名前が表示されていた。 「もしもし………」 『菊、今近くに来てるんだけど、そっちに寄っていい?』  久しぶりに聞く榊の声は、相変わらず成人男性にしては可愛らしいものだった。 「ええ………そうですね、少し待って下さい。鍵を開けておきます」  しかしそうして気付く。蛇岐が出て行ってしまったまま、施錠はされていない。虚しさが胸をすり抜け、再び思考も動作も停止する。なんだかくたびれてしまった。そんな自分に失望して、なおさら疲労感は増した。  通話を終えて寝室に戻り、たくさんの痕を付けられた身体に一枚一枚丁寧に衣服を纏った。私の仕事を気遣って、彼は見えるところには痕をつけなかった。ふと自嘲が漏れる。つい数時間前まで、このベッドで深く深く絡み合っていたのに。こんなにも急速に、孤独はやってくる。すっかり彼の匂いが染みついた寝室に籠るのは耐えがたい苦痛だった。耐えがたい寂しさだった。寝室のたったひとつの窓を大きく開き、なるべく彼の気配を外へと逃がした。それでも彼の匂いが消えないのは、私がそれをすっかり記憶してしまっているからだ。 「菊、ひどい顔」  部屋を訪れるなり開口一番、榊は無表情にそう言った。もともと感情を表に出すことのない男だ。驚いているのかそうでないのか判然としない。 「久しぶりに菊の作った料理でも食べようかと思ったけど、もしかして俺が作ったほうがいい?」 「いいえ、あなたをキッチンに立たせるなんてとんでもない。私が」  話しながら冷蔵庫を開けたはいいけれど、今ここにある食材は全て蛇岐の為に揃えたもので、どの料理を食べたら笑顔で喜んでくれるだろうかと、そんなことを想いながら買った食材ばかりが詰まっていて、それだけでもう辛くて、どうしようもなく悲しくて、もう駄目だ、と心の中で呟いた。 「菊」  冷蔵庫を開けたまま立ち尽くす私に、榊は黙って寄り添った。私より十センチも背が低く、顔立ちも身体つきもとても男性だとは思えないし、おまけに実年齢よりいくらも幼く見えてしまう。それなのにどうしてか、それが隣に立つこの男の存在そのものなのか、生まれてはじめて、榊の存在がこんなにも頼もしく心強く思えた。私たちは互いの肩を触れ合わせ、榊は何も聞かず、私も何も話さず、呼吸だけをしっかりと合わせた。 「こんなに見計らったようなタイミングで、よく来ましたね」 「まあね、菊へ対しての愛情の深さじゃない? テレパシーみたいな」  私はそれに微笑みだけで返す。榊は開け放したまま冷気を放つそれを閉めて、私の手を引きリビングへ戻ると先程置いたばかりの自分の荷物を肩にかけた。 「………帰るの?」  訊ねれば榊は、そう、と答える。 「菊も一緒に」  そうして榊は目配せをする。 「………本当に、素晴らしいタイミングで来てくれましたね」 「でしょう、ほら早く準備して」  急かされて、私は背を押されるがままひとり寝室へ戻った。どうしてもベッドに目を向けられなくて、なるべくそこだけを視界から外した。今夜は榊の家に泊まるつもりで、着替えを鞄に詰め込んだ。  どうせ今夜、蛇岐は来ない。来たとしても、きっともう元通りになどなれない。そう思うと鼻の奥がつんとして、また目頭が熱くなった。 「榊が来てくれてよかった」  ぽつりと、わざとそれを言葉にした。言葉にして、音にして、自らにしっかりと言い聞かせた。何かを言葉にしている間はそれ以外を考えないで済む。やっと溢れてきた涙を堪えながら、何度も榊への感謝を声に出して繰り返した。ありがとうありがとうありがとう。そして最後に、蛇岐を思い出す。さよならなんて言葉は、とても陳腐で安っぽいものだと思った。

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