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第33話
夕方の電車は込んでいた。座席の端に座る榊と、その目の前に立つ私。一晩泊めて、と榊に打診すると、やっぱり、と返された。
「やけに荷物多いと思ったら、やっぱり泊まるつもりなんだ」
「駄目ですか? 彼女でも来ます?」
「なにそれ、いやみ? べつに泊まったっていいけど、寝る場所がない」
「そうでしょうね、きっと部屋も散れているだろうし」
「散れてはいないよ、本が多いだけ。一緒にベッドをつかう? 菊さえよければ」
情けないことに、今夜ばかりは他人の体温が恋しくて、とてもひとりで寝られる自信がなかった。どうか今晩だけは、ひとりきりになんてなりたくない。きっと蛇岐も、私じゃない誰かと寝ている。きっと「獅子雄」と寝ている。悲しみは、足元から静かに侵食した。
「菊」
榊に呼ばれ、一拍遅れて返事を返す。
「今夜は肉が食べたい。生姜焼きとか、とんかつとか、そういうがっつり食べられるもの」
「ええ、いいですよ。あなたの好きなものを、いくらでも」
そういえば、蛇岐に生姜焼きを作ってやりたかったのだった。あの人はお茶碗いっぱいに盛られた白米をまるで吸い込むみたいに食べるから、何か家庭的な、白いごはんに合う和食を作ってやりかったのだ。それを蛇岐が喜んで、大好物になってくれるのを想像して、ひとり買い物をしながら浮かれたものだった。
「酒も買って帰ろう。俺も飲むし、月曜から仕事なんだから、明日の夜には帰らなきゃならないんでしょう」
「………そうですね」
仕事のことを考えるのも随分と億劫だ。学校でまた蛇岐に会ってしまうのだろうか。もしも今回の件で、彼が学校へ来づらくなってしまうのも、教師という立場として本意ではない。そんなことに思いを巡らせていると、たちまち息苦しくなってしまう。きっと何度も繰り返すのだろう、持ち直してまた思い詰めて悲しくなって、また持ち直して悲しくなって、そんなことをどれだけ続けたら解放されるのだろうか。
目的の駅で電車を降りて、榊と並んでホームを出た。道すがらスーパーマーケットへ寄って買い出しを済ませ、荷物はふたりで半分ずつ持った。普段からそういう人ではないのに、私に気を遣ってくれているのか榊は途切れることなく話し続けた。私が返事に困ってしまわないように、取り留めのない話を延々と繰り返した。本当に良かった。榊がいてくれてよかった。彼は昔から、私を助けて寄り添ってくれていた。
「………榊がいてくれてよかった」
無意識にそう呟くと、榊は、うん、と頷いた。
「俺も菊がいてくれて嬉しいよ」
その無邪気な言葉につい笑みがこぼれた。
空はだんだんと薄闇を纏いはじめる。私の心をうつすように。榊の家へ近づくほど、思考は蛇岐で埋め尽くされていった。彼は今夜どこにいるのだろうか。あの男と会っているのだろうか、それとも私の家の前で以前と同じように帰りを待っているのだろうか、捨て猫のように、お腹を空かせて。
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