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第34話
久しぶりの榊の部屋は予想どおり足の踏み場もないほど本で溢れていて、狭いワンルームの床が抜けやしないかとひやひやしてしまうほどだった。
「適当に片づけておくから、菊は料理に専念して」
「もちろん、そうしますけど。いい加減、本棚買ったらどうです?」
「それはまあ、その内にね」
いくら言っても、榊の答えはいつもこうなのだ。
スーパーの袋から食材を取り出し、一緒に買った酒を冷蔵庫の一番端に収めた。台所の調理器具は以前私が使ってからその後は使用されていないのか、綺麗に整頓されたまま薄く埃を被っていた。
「全然、自炊してない」
「必要性を感じないから。今はコンビニで済ませられるし」
そう、と軽く返事をする。ほんの一瞬、蛇岐が脳裏にちらついて、私はそれを振り払うようにわざとらしく咳払いをした。
余計な思考を払拭したくて黙々と野菜を切っていると、馴染みのない英語の歌が耳に入った。榊がかけた音楽だ。
「いい曲なんだよ」
榊は部屋中に散らばった本を積み重ね、大人ふたりが座れるスペースをなんとか確保した。私もまな板の上の玉葱に向き直る。包丁を入れる度に涙が零れた。きっとこれは玉葱の所為。そうでなければ、榊のかけたこの曲の所為。
私は今、誰の為に食事を作っているのだろうか。そう自分に問いかける。本当は今夜、誰と共に食卓を囲むつもりだったのだろう。どうして私は今、ここにいるのだろうか。一緒にいたかったあの人は、今いったい何処で誰とどんな風に過ごしているのだろうか。包丁を握る手に、ひとつふたつと涙が落ちる。けれど言い聞かせなければならない。私はもう、彼に食事を作ることはないのだと。この玉葱と一緒に彼への恋心も、少しの原型も留めずに刻んでしまわなければならない。
泣いている私の横に、音もなく榊が佇む。私は今日、榊の為に食事を作っているのだ。
「小さい頃さ、俺よくいじめられたりしたけど、菊だけが気付いて助けてくれたよね。あれなんで? テレパシーかな」
視界がぼやけて、榊の表情が読み取れない。
「今日は本当に偶然、菊に会いたくなったから訪ねたんだけど、タイミングってすごいね。これってやっぱりテレパシー?」
「ふふ………分かりません」
笑ったつもりだったのに、声は情けないほどに震えていた。そうして更に涙は溢れた。
「ピンチのときに駆け付けられるくらいには大人になったし、菊ももう少し俺にいろいろ話してくれたらいいのに」
せっかく兄弟なんだから、と榊は私の頭をぎこちなく撫でた。近頃は涙腺が緩くて仕方がない。涙が溢れて、けれど何故か笑みも漏れた。本当に今日、榊がいてくれてよかった。偶然でも必然でもテレパシーでも何でもいい。とにかく今日、私はこの可愛い可愛い弟の為に、腕に寄りをかけて料理をしようと心に誓うことができたのだ。
「兄弟って不思議」
「俺にとっては弟に敬語をつかう菊の方が不思議」
室内は温かな空気と、寂しい歌で満たされていた。それでも家族は不思議。寂しさで埋められた心のほんの僅かな隙間を縫うように、希望を差し込んでくれるのだから。
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