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第35話
久しぶりの兄弟ふたりきりでも食事は以前と変わらず気だるげで気楽で、会話の内容は家族についてのことが大半を占めた。風呂を借りた後、晩酌の途中で頭がぐらぐらと痛くなり、それまでも無理が祟ったのかその晩は発熱してしまい、榊はろくに眠れず私の看病をするはめになった。結局翌日の日曜も昼過ぎまで寝込んで、自宅に戻れたのは熱もすっかり下がった夜になってからだった。
最後まで心配する榊に礼を言い、帰りの電車に乗り込む。まだ身体は怠いし頭も霧がかかったように霞んでいたけど、それが丁度よかった。余計なことを考えずに済むのだから。自宅の寝室に入るのはまだ億劫だから、暫くはソファで寝てしまおう。勿体ないけれど、冷蔵庫の食材は全て棄てて、今度は自分が食べたいものを食べたいだけ作ってしまおう。そうして日常に戻っていけば、このたった数日間のことなど簡単に忘れられる。
電車を降りて暫く歩き、鞄を探って鍵を取り出しながらマンションのエレベーターに乗り込む。ドアが閉まる直前に流れ込んできた、青々とした水気を含んだ空気を吸い込むと、蛇岐への未練など断ち切れた気分になった。
病み上がりの身体を夜風で冷やさぬよう、エレベーターを降りると速足で自宅へ向かい、そこで足を止めた。自宅の扉の前にしゃがみ込む黒いパーカーの男を見て、心臓が大きく鼓動した。
「………おかえり」
幻か、と我が目を疑う。いつもと同じようにパーカーのフードを目深に被った蛇岐が、あの鋭い目を光らせてこちらを見ていた。
「どうして………」
「………用事済ませて、昨日の夜こっちに戻った。居留守使われてんのかと思ったけど、中から人のいる気配もないし、待ってた」
彼は立ち上がると深いため息と共に大きく伸びをした。
「待ってたって……………」
昨日の夜から。時刻はもう十九時をまわる頃で、彼は丸一日ここで私を待っていたと言うのだろうか。まさか、そんなはずはない、と思い直す。
「雛菊に、少し話があって」
ぼんやりとした意識から、一気に正気に戻された。彼の言う「話」が、決して良いこととは限らない。昨日私を置いて出て行ってしまったことを忘れてはいないし、ましてや許したわけでもない。あの後、彼が誰とどこで何をしていたかなんて話されたとしても聞きたい筈がない。もしもそれが別れ話ならば、今は尚更聞きたくない。
「帰って」
鍵を握り締め、震える手を抑えて鍵穴に差し込むけれど上手くいかない。つい舌打ちが漏れた。息を詰めて再び鍵を握ると、その上から彼の手が重なった。そして鍵が開けられ、そのままドアノブを傾けられると初めて彼がここへ来たときと同じように、私の身体ごと無理に押し入った。そして後ろ手にドアが閉められると、そのままきつく抱きしめられた。
「帰って……………」
切れ切れに呟かれた声は震えていた。このままではきっと私は絆されて、言葉だけの彼を言葉だけで許して、好意を示す一言にみっともなく縋り付いて、なし崩しにセックスをして、そして彼はまた「獅子雄」の許へ行くのだろう。昨日のように私を置いてきぼりにして、私はまた泣いて、また彼に絆されて、そんな不毛なやり取りを繰り返すのだろう。ずたずたに神経をすり減らしてこの身が滅んでしまうまで。
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