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第36話

 私をきつく抱きながら髪に鼻を埋めた彼の腕が一度ぴくりと震え、抱き締める腕に痛いほど力が込められた。そしてそれに呼応するように、私も無意識に緊張に身を強張らせた。 「雛菊」  名を呼ばれただけなのに、その声色に瞬時に背筋が凍った。聞いたことのない、まるで他人の声みたいだ。後ろにいるのは本当に蛇岐だろうかと疑ってしまうほど暗く重く闇を孕んだ声に、そこはかとない不安と恐怖を覚え小さな声で何度も蛇岐の名を呼んだ。返事をしてくれるまで、何度も何度も。 「蛇岐………」 「何処で何してた」  その声には明らかな怒りが込められていた。それも燃え盛る炎のように激しいものだ。裏切られて怒っているのは私の方なのに、どうして彼がこんなにも煮えたぎるほどの怒りを露わにしているのか、まったく理解できない。私を羽交い絞めにする腕から逃れたくても、力量の差は圧倒的でぴくりとも動かなかった。 「答えろ」  普段とは違った乱暴な口調と、いつまで経っても力を弛める様子のない(それどころかむしろ強くなっていた。骨が軋み、折れてしまいそうだ)蛇岐に、それでも私は身を捩って必死の抵抗を続けた。彼の身体が怒りに熱くなるのを肌で感じ、それがあまりに恐ろしかった。強烈な勢いで迫りくる彼の気迫に、一瞬の内に私のすべては恐怖に凌駕されていた。身体は震え細い息が喉を霞める。声が出なかった。 「答えろよ」  蛇岐を振り返ることもままならず、小さく首を横に振った。すると耳元で舌打ちが聞こえ、彼は突然私を冷たい床に乱暴に押し倒した。受け身をとることも出来ず、頭を強く打ち付けた痛みに顔を顰める。薄く目を開いて彼を見やれば、いつも私に見せる穏やかな表情とは全く違った、般若など可愛いものに思えてしまうほどに恐ろしい表情をしていた。  眩暈がした。「ごめんね」と言って欲しかった。いつものように、見せかけだけでも優しい声で、丁寧な指で、口先だけで良いから「好きだよ」と言って欲しかった。そうしたら私も、表向きだけでも、許してあげると言ってやれる。大人のふりして、もうしないでね、なんて言って、なかったことにしてやれるから。だからどうか、蛇岐、軽薄な偽のものでも構わないから、どうか笑って。  しかしそれが叶わないと瞬時に悟った。彼は私の上に馬乗りになって、片手で強く胸を押さえつけた。脈が速くなる。胸が痛くて苦しい。目を背けたくても、それができない。彼は目尻を吊り上がらせ、口を歪め興奮で噛み合わない歯の隙間から獣のような唸り声を漏らした。  これは蛇岐じゃない。そう思わなければ、彼と過ごした日々が本当の意味で崩壊してしまう気がした。心の中で何度も唱え続けた。これは蛇岐じゃない、これは蛇岐じゃない、蛇岐じゃない蛇岐じゃない。 「他の奴の匂いなんかつけてきてんじゃねえよ!」  彼がそう叫んだとほぼ同時に、耳の真横で風を切る鋭い音が駆け抜けた。それは、ほんの一瞬だった。きぃん、と短く耳鳴りがする。  音と共に突き立てられたものが視界の端に入り、暗い室内の僅かな光を反射させていた。歯はがちがちと鳴り、大袈裟なほどに震えた身体は治まることを知らず、恐怖からいくつもの涙が筋を作った。あまりの混乱に状況を把握できない。ただ目の前にあるものだけを単純に説明するのなら、怒りに染め上げられた彼を目の前に成す術なく、私の耳からわずかの距離もない場所に、鋭いナイフが突き立てられている。明白なのは、混乱した頭の中で把握できたのは、恐らく、たったそれだけ。

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