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第38話

 ○  久留須蛇岐  獅子雄さんは、電話に出ない。  金曜の夜。無事に仕事を終えた旨を獅子雄さんに電話で伝えると、労いの言葉もなく「そうか」とだけ素っ気なく返された。そして「またこちらから連絡する」と言って、電話は一方的に切られた。暗くなった液晶を見つめる。  今日も言えなかった。しかし言わなければならない。発信履歴からかけ直す。発信履歴も着信履歴も、そこにある名前は獅子雄さんただひとりだけだ。コールを数える。七まで数えて、電話を切った。五分置いて、またかけた。八まで数えて、舌打ちと共に切った。  一度自宅へ戻り、軽く身体を流して手早く着替えた。それまで着ていた服はビニールに詰めてゴミ袋へ放り込んだ。携帯電話の液晶を眺める。着信はない。画面をタップして獅子雄さんを呼び出す。コールを数える。七で切った。安物のハンガーラックには黒いパーカーがいくつも並び、その内のひとつを着こんで自宅を出た。越して来てこの方、鍵なんて閉めたことがない。  雛菊の家へ向かう道すがら、もう一度獅子雄さんに電話をかけた。出ないことは分かっていた。七まで数えて、切って、間を置かずに再びかけ直し、九まで数えてから切った。獅子雄さんは電話に出ない。折り返しかけ直してくれるのも、いつになるやら分からない。  雛菊は一見穏やかな男だ。穏やかで女々しくて、独占欲が強くて、己惚れ屋なのに自信がなくて隙はある。美しく整頓された状態を好んで、美しく保たれた自分を愛して、自然に磨かれた俺の美しい肉体に欲情している。  あの学校へ籍を置く前、獅子雄さんに言われて一度だけ偵察へ出かけた。正門から少し離れた物陰で、まずはグラウンドの広さを目測し、貰った資料の情報と相違はないかと脳を働かせる。正面玄関から一階、二階、三階、四階、五階、そして最後に屋上を見上げたとき、確実にその男と視線が絡んだ。現実的に考えて、それは有り得ないことだった。屋上から俺の立っている位置まで直線距離でおよそ三十メートル。互いの存在に気付きはしても、視線を合わせるなんて常人には難しい。きっと錯覚だと思い直しても、屋上の男から浴びせられる視線が痛くて仕方がなくて、俺は足早にその場を去った。  美しい男だった。冷ややかで退屈そうな表情、それとは裏腹に燃え盛る炎のような激しい欲に濡れた瞳。見えるわけがない。視線が絡むはずがない。しかし俺にははっきりと分かったのだ。男が俺に、欲情した視線を向けていたのを、確かに俺は感じ取ったのだ。  学校の偵察を終えたその足で獅子雄さんのもとへ向かい、追加で受け取った資料で雛菊を知った。臨時の養護教諭、整った顔以外(しかしそれも獅子雄さんには劣る、と思っていた)、面白みのない情報が並ぶだけだった。何か気になることがあるのか、と獅子雄さんに訊ねられ、いいえ、と返した。  コンビニで出会ったのはそれから二ヶ月が過ぎた頃だった。雛菊は熱く濡らした瞳で目の前に立ち塞がった。寂しそうな男だ。空洞だらけ、つぎはぎだらけ、虚勢が形を持っただけのような男。そんな男が、なぜ俺を欲しがるのか。魂は歪に捻じれているに違いない、俺と同じように。それならば、応えてやりたかった。無意識だとしても、それほどまでに俺を求めてくれるのなら、それに応えるだけの資格が俺に与えられているはずだ。なんとしてでもこの美しい男の欲に応え、従い、そして決して手放してはならない。そんなこと、あってはならない。互いの寂しさを埋められるのは互いしかいないのだ。

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