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第40話

 不機嫌な獅子雄さんの声に呼吸が難しいほど心臓が痛み、どれだけ唾を飲み込んでも不必要な酸素が肺に溜まるだけだったそ。れでも何度も腹を括り直して、何度も己を叱咤して、やっとのことで言葉を絞り出した。 「獅子雄さん、会いたい。………会いたいです」  何よりも伝えなければならないのはその一点のみで、必死な想いをしてどうにか告げられたことに安堵したときにはもう、唇は次々と勝手に言葉を生み出していた。その原動力は、今までまともに取り合ってくれなかったことへ対しての怒りかも知れない。吐き出される声は、無意識に刺々しくなっていた。 「電話、全然出てくれないじゃないですか、何度もかけてるのに。近々、時間つくれますか。俺は今すぐ会いに行ったって構いませんが」  強気で言い放ってしまった勢いで会いに行かなければ、翌日にはこの勇気はすっかり萎んでしまうような気がした。言ってしまった後で心臓は妙に激しく鼓動したけれど、しかしそれも後の祭りだ。  くだらない、と獅子雄さんは吐き捨てた。そして「五分で来い」と言い残すと、いつものように一方的に通信は絶たれた。  緊張と興奮に、しばらく武者震いがとまらなかった。寝室に戻れば雛菊はこちらに背を向けて横たわったままで、髪の隙間からほんの少し覗く顔色は蒼白だった。俺は獅子雄さんとの約束を取り付けることのできた自分の勇気に酔っていて、雛菊の分かりやすい機微なんて、ほんの少しも気にとめることはなかった。もう少しですべての問題はなくなって、雛菊の寂しさをきちんと埋めてやれる。そして自身のこの虚しさも、きっとすべて消えてなくなる。もうすぐで、俺を縛り付けるすべての柵から解き放たれる。互いの孤独を隙間なく埋め合うことができる。だから俺は、待っていてと言ったのに。  獅子雄さんとは「仕事」の拠点として利用しているホテルの一室で落ち合うことになり、その部屋の扉を叩くまでに二度、大きく深呼吸をした。紛れもなく緊張していた。汗で濡れた手を固く握り、決意と共に扉を叩いた。 「入れ」  ぶっきらぼうな返事を聞いてから、静かに扉を開ける。広々とした室内に、随分と草臥れた様子の獅子雄さんの姿があった。 「獅子雄さん」  呼べば面倒くさそうに視線をあげて俺を睨み付ける。手元にはたくさんの書類が山積されていて、近ごろの多忙さが見て取れた。 「見ての通り忙しい。さっさと要件を言え」  手短に、と釘を刺される。緊張から息の上がる俺に、獅子雄さんは鋭く目を細めた。  はじめて出会った頃から、この男は厳しい目をしている。それは年々増しているようにも思えた。しかしそれを決して嫌いではなかった。むしろ親しみさえ抱いていた。俺をここまで育て上げてきたのはこの男だし、この人さえいれば俺はいつまでもどこまでも、強く生きていけるような気がしていた。その厳しい瞳にすら、俺は泣き縋りたくなってしまうほどの愛おしさを感じてもいた。 「………仕事のこと」  自覚しているよりはるかに緊張しているのか、喉は掠れていたし手のひらは汗で濡れていた。けれど決意を固めてここへ来た。雛菊を置いてまで、ここに来た。 「仕事のこと、話したい人がいる」  額に滲んでいた汗が、ついに頬を伝った。真正面から獅子雄さんを窺い見ると、眉ひとつ動かさず背もたれに深く身を沈め優雅な所作で脚を組み、一度だけゆっくりと深呼吸をした。 「それがどうかしたか」

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