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第42話

 こうしている間にも雛菊は俺を待っているかも知れない、あの暗く冷たい玄関で。ふいに、去り際に見た雛菊の表情が脳裏をかすめ、己の行動がいかに身勝手で残酷なものだったかを一瞬にして思い知らされた。そして途端に、恐ろしくなってしまった。握った拳が震え、その隙間から大切な雛菊がさらさらと零れ落ちていくような気さえした。早く戻って抱き締めて、愛してると言ってやらなければ。それは誰の為に。焦燥感に駆られる中、それは間違いなく自分の為だと呟いた。俺が、雛菊を失わない為に。 「獅子雄さん、頼む、お願いだから………」  頬の筋肉が細かく痙攣する。雛菊の絶望の色を浮かべた表情を思い出す。そんな顔をさせるつもりはなかったのに。そんな顔をさせたくなくて、早く獅子雄さんに会って許しを貰いたかったのに。 「雛菊がいなくなったら、俺にはもう何も残らない」  俺を「普通の」人間たらしめるものなんて、ひとつもなかった。生まれてから今まで、俺には目の前の熱のない瞳を持つこの男しかいなかった。この男しかいなかったから好きになったのに、それにも応えてくれなかったくせに、やっと手に入れた雛菊さえもこの男は手放せと言うのだろうか。こんなにも簡単に。 「今更、雛菊を手放せるはずないだろ」 「それなら今すぐこの仕事から足を洗え」  どすん、と鈍い音が室内に響く。テーブルを叩いた獅子雄さんの拳と共に、それは急速に、絶望の淵へと叩きつけられた。この男が声を張り上げるのは、出会ってからこれまでで片手で数える程しかない。その声が脳内に響いて、悲しくなって悔しくなって、砂で出来た城みたいに、波に攫われてこの身が崩れていくようだった。 「なんでそんなこと言うんだよ……………」  俺は今、どんなに情けない顔をしているだろう。 「俺の生き甲斐ばかり奪うなよ!」  気付けばそう叫んでいて、俺は足早に部屋を去った。どこへ向かっているかなんて明白だ。 仕事を奪われ、雛菊まで手放してしまえば、俺が俺である価値も意味もなくなってしまう。俺が存在していい理由まで、この世からなくなってしまう。この仕事こそ生きている意味で、雛菊の存在そのものが人生の価値なのに、それらを奪われてしまうのなら、それはもう死んでいるのと大差ない。俺はもう、死んでしまっているのだ。  物心ついてから今まで、覚えている限りで俺は泣いたことがない。だから雛菊の家へ向かって走っている今も、もちろん泣いていない。泣きたいとも思っていない。どう泣くのかさえ分からない。とにかく呼吸が苦しくて、どうやって獅子雄さんを説得しようか、あんな風に雛菊を置いて来てしまって何と言い訳をしようか、許してくれるだろうか、また会ってくれるのだろうか、そんなことばかりが頭を巡った。腹が減った。また雛菊が作った料理が食べたい。一緒に寝て、朝を迎えたい。どうしても手放したくはないのに、だけど目の前に立ち塞がる「獅子雄」という男の存在は俺にとってあまりに大きすぎた。全速力で駆けながら、なるべく息を吐くように努める。会いたい、雛菊に。今すぐ会って抱き締めたい。  電車にでも乗ればよかったのに、ひと時もじっとはしていられなくて走った。既に日は落ちかけて、行き交う人々を夕日が赤く染め上げた。自らの呼吸音が騒がしい。胸が苦しい。雛菊に会いたい。必死になって走り、目当てのマンションに駆け込み、エレベーターに飛び乗った。 (雛菊……………)  袖口で汗を拭い、唾を飲み込み必死に息を整えた。エレベーターの扉が開くと同時に再び駆けて、その部屋のドアノブを傾けた。がちり、と硬い音が鳴る。拍子抜けして、おかしな息が漏れた。もう一度ノブを傾ける。がちりと鳴った。扉は開かない。呼吸を落ち着けて、中の様子を耳だけで探る。テレビが点いている様子も、人が活動している気配もない。インターフォンを押した。無駄だと分かっていた。雛菊はいなかった。

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