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第43話

 雛菊は、俺のことなんて少しも待ってくれてはいなかった。丸一日家を空けて、やっと帰宅したのは翌日の夜になってからで、ずっと待っていた俺に対して勝手に傷ついた顔をして、勝手に怒って悲しんで、これ見よがしに違う男の匂いをさせて帰ってきた。嗅いだことのない男の匂い。俺以外の、男の匂い。許せるはずがなかった。雛菊は俺を信用してはいなかったし、愛していなかったということだ。あんなに親切なふりをして、俺だけを求めたような顔をして。こんな裏切りなんてあんまりだ。許せない、許せない許せない。許さない。  わざとらしくナイフを振り上げて、恐怖で脅しつけるような真似をして(もしかすると「真似」では収まらないのかもしれない)体内を暴れ狂う怒りの後に、ふと嘲笑が漏れた。しかし、こんなの分かり切ったことじゃないか、ともうひとりの自分が囁きかける。この男だけはと期待した俺が馬鹿なのだ。頬を伝った涙は血まみれの雛菊の顔を濡らす。可哀想に。こんなに怯えてしまって。目は虚ろで、ぴくりとも動かない。あんなに俺だけを求めていたはずなのに。おまえの孤独に応えられるのは、俺だけだと信じていたのに。そして途方もない、出口の見えない真っ暗な寂しさが静かに訪れた。俺はいつも、選ばれなかった人間なのだ。 「一度でいいから、愛してるって言って、雛菊」  言葉にすれば、それはとても無価値なものに思えた。そして雛菊の部屋を出た。もう二度と、ここへ来てはいけないような気がした。  痛む腕と混乱の中、ついにやってしまった、とぼんやり考えた。それは本当に、はじめはぼんやりしていた筈なのに、足を一歩踏み出す度に大きな波紋を生み、やがて大きな波になって俺を襲った。  やってしまった。やってしまった、やってしまった。やってしまった。爪先が地面を蹴る度に大きく振られた左手は痛んで、拳を握ると尚更激しく脈打った。 「獅子雄さん………!」  正気に戻ったときには、既にその大きな扉を叩いていた。左腕から滑った血を垂れ流し、右手にはナイフを携えたまま、ふらつく足で獅子雄さんの屋敷まで辿り着いた。 「………何をしてきた」  扉を開けた獅子雄さんの表情は決して良いものでなく、今の俺の状況をひどく煙たがっているようだった。けれどそれでも、この男の顔を見るだけで心の底から安堵した。もう大丈夫だ、と根拠のない安心感に包まれて、でかい図体を丸めてその足元に縋りついた。 「床を汚すな」  俺に一瞥をくれただけの獅子雄さんはすぐさま踵を返し、部屋の奥へと足を進めた。左腕から血を流しながら立ち上がり、自然と足は同じ方へ向いていた。  広い屋敷の中の手ごろな一室は、獅子雄さんが仕事部屋として構えた部屋だ。二、三年前までは頻繁に出入りしていたのに、ある頃からそれを疎まれるようになった。俺が、獅子雄さんをひとり占めしたくなりはじめた頃から。 「獅子雄さん、俺の話、聞いて」  切れ切れに呟いた声は震えていて、泣いている自分が愚かしいと感じた。まったく馬鹿馬鹿しくて、いつまで経っても救いようのない人間だと呆れてしまった。獅子雄さんはそれについては返事をせずに、ガーゼと包帯を投げつけて「仕事に支障をきたすな」と言った。  床に投げ出されたそれを拾って、右手と口を使って包帯を巻いた。どこにどうやって巻くべきか、すべて頭に入っていた。すべて身体に沁みついていた。出血は目立つけれど、筋肉に損傷はない。そうなるようにわざと刃をあてたからだ。「素人」相手の、戯れのような威嚇行為だ。それを、雛菊に、やってしまった。 「俺の、仕事のこと」 「話したのか」  獅子雄さんは間髪入れずに問いただす。抑揚のない、しかし剣のある声だ。俺は首を横に振った。 「みんな俺を置いていく。獅子雄さん、みんな置いて行くんだ」  吐き出した声は荒くなった呼吸と混じり合い、はくはくと奇妙な音をさせた。肺が痛い。呼吸が苦しい。眩暈がした。 「蛇岐」  堪らず床に蹲る俺の背に、獅子雄さんの手のひらが触れた。 「蛇岐」  そして覆いかぶさるように俺をその腕の中に収めると、何度も何度も名前を呼んだ。あの頃以来、聞くことのなくなった慈しみ深く優しい声だ。堪らず獅子雄さんの腰にしがみ付き、薄く筋肉の張った腹に顔を押し付けた。  くらくらする頭の中で、雛菊を思い出した。俺を置いて行ってしまった雛菊。愛してくれなかった雛菊。選ばれなかった自分。 「置いて行かないで」  熱く息苦しくて、悲しくて、いやな思い出と後悔ばかりが駆け巡った。それでも必死に獅子雄さんの声に耳を傾けた。 「蛇岐」 「獅子雄さんだけでいいから、もう、他はいらないから、行かないで」 「落ち着け、蛇岐」  その響きだけ、ひたすらに反芻した。一定の感覚で、抑揚のない、紛れもない獅子雄さんの声だ。何度も何度も、俺の名を囁いている。「蛇岐」と。それを胸に刻み込んだ。深く深く刻み込んだ。そしてむせび泣いた。 「獅子雄さん」  それでも、雛菊を想った。 「獅子雄さん」  雛菊。愛してなんて、もう言わないから、お願いだから行かないで。

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