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第44話

   ○ 月崎雛菊  いつもどおりの朝を迎えた。いつもどおりの朝だった。いつもと違うことと言えばソファで目覚めたことくらいで、それ以外はまったくいつもどおりの朝だった。いつもどおりの朝に、戻ってしまった。  五時すぎに起きて朝食を摂って電車で職場へ向かう。上辺だけをなぞるような挨拶を交わして保健室へ向かい、カーテンと窓を開けて賑わうグラウンドを眺めた。今朝もバレー部の皆元はやって来た。この間の一件はなかったことになったのか、特にいつもと違ったことは言われなかった。まるであの夢のような数日間すべてが、なくなってしまったみたいだ。広いグラウンドの中に、太陽の光を煌めかせる蛇岐がいないだなんて。  無意識に彼を探してグラウンドに目を走らせていると、サッカーボールを蹴ったひとりが勢いよく足を滑らせ地面に酷く身体をこすった。膝から流れ出す鮮血に思わず顔を顰める。血の匂いが消えないのだ。あの日の彼の血の匂いが鼻の奥にこびりついて、何度身体を洗っても、血の滴った床をどれだけ拭いても、消えてくれない。最後に見た彼の表情も、脳裏に焼き付いて離れない。泣きたいのは私の方なのに、結局少しも泣けないでいる。あの時の恐怖に思考を絡め取られて、彼が去った今も混乱から抜け出せない。  どうしたらいいのかも分からないのだから、このままでいるほかなかった。自分が何が知りたがっているのかも分からないし、入り組んでいるであろう彼の事情も感懐も、分からないことしかない。彼が私の前に現れない限り、それらひとつを知る手立ても失っている。だからもう忘れるしかない。なかったことにするしかないのだ。今までだって、ずっとそうしてきた。様々なことに対して、忘れるなんて容易かった。知らないでいることに不自由を感じたこともない。  だから嫌だったのだ。好奇心に掻き立てられて他人に興味を持つことも、その上こんなにも好きになってしまうのも。そうでなければ頭を悩ませることも、胸を痛めることもしないで済んだのに。彼のことは忘れよう。今までそうしてきたように。好奇心なんて死んでしまえ。死んでしまえ、死んでしまえ。死んでしまえ。 「…………それができたら、楽なのに」  呟いたのは、恐らく本心だった。情けない顔をしているだろうことは確認せずともよく分かっていた。  出勤して仕事をする、煙草を吸う、帰宅する、食事をする、寝る、起きる。当たり前にあった毎日がきちんと過ぎていく。結局はそういうものなのだ。私が幸福でも不幸でも、彼がいてもいなくても、世の中は当たり前に進んでいく。そうやって一週間が過ぎた。私は毎朝窓辺に立っている。グラウンドでは楽しそうな声が響いて、爽やかな汗が光って、子供たちは溌溂とした笑みを湛えている。私はそれを、虚しい想いで眺めている。 「ヒナちゃんせんせー、最近元気ないね」  今朝も欠かさず、皆元はやってきた。窓を挟んだ向こうから私に声をかける。綺麗な丸みを帯びた彼女の額には可愛らしいニキビが見えた。 「………そうですね、元気はないかも知れません」 「悩み事?」  私は彼女を一瞥する。思わず背けてしまいたくなるほど真っすぐな瞳で私を見ていた。 「……………そういう風に見えますか」  正直、私は既に相当参っていた。どうにか解消しようにも、悄然とした思いはどうすることもできなかった。どこにいても何をしていても考えるのは蛇岐のことばかりで、それが恋愛感情からくるものなのか、ただ単にあんな別れ方になってしまったからなのか、もしくはその両方か。抱えきれず解決できず、完全に行き詰っていた。 「ヒナちゃんせんせー」  皆元には珍しい、少し沈んだ声だった。何ですか、と返事をする前に皆元は続けた。 「せんせーって、久留須くんと付き合ってるの?」  は、と息が漏れる。心臓が激しく震えた。咄嗟のことで返事に詰まる。どこかで何か見られたのだろうか。否、彼と外出したことはないし、人前でそれらしい行為などしていない。何よりそういう関係だったのもほんの数日の間だけだ。だとするとこの子は、彼について何か知っているのだろうか。そんな根拠のない憶測が脳裏を過ぎった。  藁にも縋る思いだった。どうにかして、何をしてでも、この状況から脱するには誰かの力が必要だった。しかし私は何も言えずに忙しなく瞬きを繰り返した。それが皆元の言葉を肯定することになると分かっていても、適切な言葉なんてひとつも出てこなかった。 「大丈夫、誰にも言わないよ」 「ああ、いや………いいえ、そういうことではなくて………」  困り果てるとはまさにこのことだろう。何も言葉が浮かばない。違います、と一言否定することすらままならない。

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