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第45話
「保健室、入っていい?」
「え?」
「口止め料にコーヒー飲ませて」
「ですが、そろそろ朝礼が」
「休むって友達に連絡入れておく」
言うや否や皆元は短いスカートにも関わらず窓のサッシに足をかけ、軽やかに保健室へ入り込んだ。それと同時に予鈴が響く。
「ヒナちゃんせんせー」
彼女の行動を咎めることを諦めて棚からマグカップを取り出しコーヒーを淹れた。それを丸椅子に腰かけた彼女の前に差し出すと、律儀に礼を言って受け取った。
「この間はごめんね」
この間、と言われて思い浮かぶのはやはり彼女が蛇岐を感情のまま非難した日のことで、それに対して私も大人げなく剥き出しの不快感を彼女へ向けたことを今更ながらに恥じた。
「いいえ………私も、すみません」
彼女と目を合わせられないまま、カップの中の黒い渦を見つめた。悪いことをしている気分だった。
「先生は、久留須くんが好きなの? 付き合ってた?」
皆元の人柄を表すような真っすぐな質問に私は暫く黙秘を続けたけれど、この態度こそが既に答えだと気付き、長く息を吐き口を開いた。
「………女性はみんな、そんなに勘が鋭いものなんですか」
こちらの一瞬の機微も見逃してはくれない。忘れたいと願っていることですら、そこだけを過敏になって摘み上げる。彼女は乾いた笑いを漏らし、違うよ、と言った。
「私がオンナだから、気が付いたとでも思ってるの」
皆元は寂し気に眉を下げ、ぎこちない笑顔で取り繕った。私は言葉の意味を図りかね、首を傾げて次を待った。
「ヒナちゃんせんせーって案外にぶいんだね」
皆元は自嘲気味な笑みを漏らした。湯気の立つカップをデスクに置き、校則よりも十センチほど短いスカートの裾を引っ張り、そして俯いた。どうかしたのかと訊く前に、気が付いた。分かってしまった。伸ばしかけた手を引く。そして彼女が顔を上げるのを待った。彼女は何度も深呼吸をして、顔を上げようとしては俯き、そしてまた黙りこくった。私も黙って彼女を待った。
長い時間が流れた。それでも私は待った。そうしなければならないからだ。ほかの教室では授業が始まっている。開け放たれた窓からはぬるく湿った夏の風が入り込み、カップに入ったコーヒーから湯気が消えた。彼女は静かに息を吐き、ついに顔を上げた。その瞳に固い決意が見えた気がした。
「先生」
いつになく真剣な声色に、私は静かに、はい、と返事をする。
「あのね、私、先生が好きだよ」
私はまた、はい、と言った。
「私だって、ずっと見てたんだよ」
彼女の膝の上で固く握られた拳が、小刻みに震えていた。
「先生、久留須くんが編入してすぐからずっとそうだった。グラウンドばかり見て、他にもたくさん生徒はいたのに、そっちには目もくれないで久留須くんばっかり。私だって、毎朝先生の目の前にいたのに。好きじゃなきゃ、毎朝わざわざ早起きして保健室に来ないって」
彼女はいつも以上に饒舌だったけれど、声は震えて弱々しく響いていた。
「私、生徒だし、ヒナちゃんせんせーモテるし無理って諦めてたのに、だけど先生ずっと久留須くんばっかり見てるんだもん。知りたくなくても分かるよ。………久留須くん、生徒だし男だし、だったら私の方が望みあるかなって少し期待してたんだけど、そうじゃないよね。………そうじゃないんだよね」
彼女はとうとう泣き出した。ハンカチを差し出すと彼女はそれを素直に受け取り、くしゃくしゃに丸めて涙を拭いた。そして無理やりに作った笑みを浮かべて、照れ臭そうに(ともすれば痛々しく)笑った。
「ありがとうございます」
色々な言葉が頭を駆け巡ったけれど、結局それしか出てこなかった。彼女の勇気を受け止めるだけで精一杯だった。強い女性だ。意気地なしの私や、そして蛇岐とは違う。彼女はとても強い女性だった。
彼女の言うとおり、私は蛇岐が好きなのだ。どうしようもなく。しかしそれを口にしなかったのは何故だろうか。
ただ身体を重ねるだけで恋人同士になれるのだとしたら、そう思い込んでいるとしたならば、私たちはきっとただ寂しいだけの大人だ。ただ寂しくて、隙間を埋める相手を探しているだけで、ただそれだけのことを「大人の関係」などと言ってしまうのは、なんて滑稽なのだろう。拒絶を恐れて大切なことが言えないだなんて、そんな私に、今目の前で泣いている彼女の勇気を受け入れる資格も拒む資格もありはしない。そして蛇岐を責める資格も、あるはずがないのだ。
「ありがとうございます」
腰を折り、私は深々と頭を下げた。彼女と、そしてこんなにも愚かで傲慢な私を今まで愛してくれた人たちに。
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