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第46話

 なんて身勝手で高飛車で無神経だったろう。私は冷たく薄情な人間なのだ。軽薄で偽善的で自己中心的な、そんな最低な人間で、それを分かっていながらそうやって生きていくだけの価値があるのだと勘違いをしただけの、空っぽな人間だったのだ。私は何も秀でていない、だけどそれを自ら認められなくて、劣等感だらけの自分を見て見ぬ振りをしていただけだ。だからいつも心の中で他人を貶めた。孤独と孤高をすり替えた。ただの寂しい人間だったのだ。 「先生」  涙で濡れたハンカチを、皆元が私に差し出す。 「泣いてる」  そうですね、と返してハンカチを受け取った。  ただ一言、彼に好きだと伝えていたのなら、こんなことにはならなかったのだろうか。ただひとつ、彼から確かな行いを与えられていたのなら、こんなことにはならなかったのだろうか。どちらかが臆病でなければ、ここまで捩じれることはなかったのだろうか。後悔の念は後から後から押し寄せる。  「獅子雄」が何者なのか訊けていたのなら。正気を失った彼を抱き締められていたのなら。寂し気に去って行く彼を、引き止められていたのなら。それらができる勇気を、私が持てていたのなら。私はこんなにも彼を愛していたのに。今でもこんなに、求めているのに。 「大丈夫?」  私を気遣う皆元に、情けない姿を晒してしまったことを謝った。好きな男がこんな醜態をさらしてしまっては、彼女もさぞ幻滅したことだろう。 「………久留須くんと別れちゃったの?」  遠慮がちに彼女は問いかけ、私はどうにか涙を止めて笑顔で取り繕った。 「分かりません。………私も彼も、あなたの半分でもいいから勇気があれば、或いはこうはならなかったのでしょう」 「振られちゃった?」 「それも分からない」 「ヒナちゃんせんせーが振ったの?」 「そんなつもりもなかったのですが、向こうがどう受け取ったのか」  皆元は眉間に皺を寄せて大きく首を傾げた。 「振ってもないし振られてもないのに別れちゃったの? なんかそれ勿体ないよね、話し合えばすぐに解決しそうなのに」 「………そんなに単純にいくかどうか」 「先生が考えるほど、複雑にする必要はあるの?」  私はぽかんと口を開けて、暫く呆けた。彼女の言うことは至極真っ当な意見に思えたからだ。 「大人って何でもかんでも難しくするよね」  意味わかんない、と彼女は続けた。  確かに、まさしく彼女の言うとおりだ。私の想いを伝えることも、彼の想いを聞くことも、獅子雄との関係性も、そしてあの日の彼の行動の真意も、私たちは踏むべき手順を全て見逃してきた。身体を交えるだけで満足しようとしていた。本来ならそうあるべきではないはずだ。私のすぐ傍にある環境や、今目の前にいる皆元、教え子である子供たちの姿こそ、恐らく我々が本来あるべき姿なのだ。身体を交えるよりももっと以前に、やるべきことが確かにあったのだ。 「………それで本当に別れたら、私がまた慰めてあげるね」  彼女は照れ臭そうに頬を弛める。強くて優しくて、きっととても魅力的な女性に成長するのだろう。 「ありがとうございます。本当に、色々と、たくさん」  微笑みかけると、彼女は顔をあかくして思い切りのいい笑顔をつくった。そしておもむろに立ち上がると鏡でしっかりと身だしなみをチェックして、保健室を出る頃にはすっかりいつもどおりの彼女に戻っていた。それを見送り、ため息と共に背もたれに深く身体を預けた。  どうしようか、と自身に問いかける。何をすべきなのかどこへ向かえばいいのか。けれど考えて、尚更深いため息が漏れた。考えるなんてことは彼が出て行ってから気が遠くなるほどしてきたことだ。何度もそうして、それでも尚答えは見つからない。何故なら私は彼に関することを何も知らないからだ。連絡先も住所も知らない。唯一、頼みの綱だと言っていい学校へ送られてきた身上書にさえ、何ひとつ書かれていなかったのだ。  彼の最後の行動を顧みて、彼がこちらへ編入してくる前日の校長と教頭の顔がふと頭を過ぎった。朝の職員会議で、あまりに突然のことだった。右へ左へ彷徨う視線、校長は何度も額の汗を拭った。明日、転入生がひとり、と小心者の校長はしどろもどろ告げた。興味もない、まったく気にも留めない出来事だった。しかし今になってどうしてか、なるほどあれは不正な大金が流れ込んできたのだ、と思い至った。校長の机の上に広げられた身上書を見るともなしに眺めると、それは身上書と言うにはあまりに杜撰なものだった。顔写真、名前と性別、たったそれだけ。家族構成もこれまでの学歴も病歴はおろか住所も書かれていない。不備だらけの不自然な書類に校長たちのあの顔色、今思えばそれは「よくないこと」が既に起こっていたのだろう。  ナイフを振り上げた彼がフラッシュバックする。嗚咽が漏れた。考えなければならない。しかし思い出したくはない。彼を知るのが恐いのだ。彼が仕事と称して「悪いこと」に手を染めているに違いないのだから。  目の前に立ちはだかる現実は、私と彼を遠ざけているようだった。私は待つしかできない。待って待って待って、それでも彼が現れないのなら、それは完全なる終焉なのだろう。彼は私の手のひらを通り過ぎただけ。もしかすると、それがいいのかも知れない。彼は私の知り得ない世界で生きていて、私はそれに深く入り込んではいけない人間なのかも知れない。  数々の想いと可能性が、何度も何度も頭の中をぐるぐると駆け巡った。現実味のないものものが私を激しく搔き乱した。蛇岐に会いたい。そうすれば、何もかも手放せる気がした。

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