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第47話

 煮え切らない想いを抱えたまま、静かに放課後を迎えた。十八時を過ぎる頃には空は茜色に染まり、十九時には殆どの生徒が部活を終えて帰宅していく。それを保健室から見送った。  考えれば考えるだけ、思考はよくない方向へと進んだ。彼と会って、私はどうするつもりなのだろうか。関係の修復を迫るのだろうか、「獅子雄」という存在がいる彼と。ナイフを振り上げた、彼と。 「……………………」  ため息は尽きることなく何度も漏れた。頭が痛い。やはり、忘れたほうが良いのではないか。何度も自問する。答えは見つからない。だけど今、とにかく彼に会いたい。 「月崎先生、まだ帰らないんですか?」  二十時を過ぎた頃、手持ち無沙汰で職員室を訪れると新任の若い女教師が私の横に並んだ。 「………ええ、今日中にやっておきたい仕事があって」  咄嗟に嘘をついた。ひとりの家に帰りたくないだけの、まったくの出任せだ。 「そうなんですか。………あの、じゃあ鍵、お願いしてもいいですか? 私これから用事があって」  女教師はポケットに手を入れて中を探り、細長い鍵を取り出すと私の前に差し出した。 「ええ、構いませんよ」  都合がいい。私が鍵を持っていれば学校から追い出されずに済む。私は二つ返事で鍵を受け取り、女教師は慌ただしく去って行った。職員室の電気は点けたまま施錠だけはしっかりとして保健室へ戻る。何もすることはなかったけれど、それは家にいたところで同じだ。保健室のカーテンを閉めようと窓辺へ寄ったとき、一台の車が目に留まった。  遠目にも分かる黒塗りの高級車だ。素っ気なく無機質な夜の学校にはあまりに不釣り合いのその車が、丁度校門の前で停まった。横付けされた車から、ひとりの男が降りてくる。艶やかな黒髪の男だ。一直線にこちらへ向かってくる。目が逸らせない。その男が私を睨み付けるように見ているからだ。心臓が五月蠅く鳴った。見覚えのない、知らない男だ。嫌な予感がした。すぐに逃げ出さなければならない気がした。けれど毛穴という毛穴から汗が噴き出し、男の視線の圧力に押されて動けずにいる。ついに男は目の前で立ち止まり、濃紺色をした双眸は瞬きもせず確かに私を捕らえた。知りたくもなかった。それでも直感的に、分かってしまった。 「獅子雄…………」  そよ風に消え入りそうな私の声も目の前の男にはしっかりと聞こえたようで、よく分かったな、と返されて、絶望に胸を打ち砕かれた気分だった。  開け放したままの窓から、獅子雄は流れるように室内に入り込む。スマートな身のこなし、涼やかで切れ長の双眸をしたその男は、思わず目を奪われるほどの美しさだった。精巧につくられた石膏像のような男が、堂々たる威厳を持ち私の前に立ちはだかった。  何もかもが劣っていた。私は何度も打ち砕かれた。この男こそが、彼に相応しい。その考えは否定しようもなかった。私は何もかも劣っているのだ。比べようもない。目の前が真っ暗で、否応なく彼を手放さなければならないことが酷く悲しかった。 「おまえに用があって来た」  心地よいとすら感じてしまいそうな落ち着いた声色で獅子雄はそう告げた。でなければここへ来る必要はないでしょう、そう言い返そうとしたのに、乾いた喉はか細い息を漏らすだけだった。

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