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第48話

 獅子雄は依然冷ややかな態度で私の前に立ちはだかり、そして生徒たちの使うパイプ椅子に腰かけその長い脚を組んだ。視線を上げれば獅子雄は顎をしゃくって「座れ」と促し、警戒を解ききれぬまま、けれど大人しくそれに従った。 「蛇岐とおまえの関係について」  びくりと肩が震えた。その話というのは分かり切っていたのに、私の動悸は更に激しくなった。何か言わなければならない。蛇岐を手放したくないと。しかしそれは本心だろうか。あんなことになってしまって、私はそれでも、獅子雄のように怯まず堂々と彼に向き合えるだろうか。  言葉が紡げず、それでも口を開いて何か意思表示をしたいけれど、結局私は何もできなかった。苛立ちと悲しみとやるせなさに頭を殴られた気分だった。しかし獅子雄は厭味なほど冷静に私を見つめ、そして静かに切り出した。 「おまえと蛇岐の関係について、言及は控える。面倒だ、どうでもいい。ただ近頃の蛇岐の行動は目に余る。まったく仕事にならない、いい迷惑だ」  ひと息にそう吐き捨て、獅子雄は本当に参っているのか顔は青白く、そして疲労の色を浮かべた大きなため息をついた。  獅子雄の言葉をひとつひとつ理解しようと努めたけれど、私の中の常識がそれを阻んだ。獅子雄は私と蛇岐の今までを許すとでも言いたいのだろうか。見て見ぬふりをしてやるとでも言いたいのだろうか。まさに勝ち誇った態度だ。 「………私に、蛇岐を手放せと言いに来たの」  あまりの悔しさにやっとの想いで言葉を紡ぐと、それを皮切りに次々に涙が零れた。  この男は私を責めているのだろうか、それとも蛇岐が自分の許へ帰ってきたのをひけらかしに来たのだろうか。こんな経験は生まれて初めてだ。身を引き裂かれる思いだった。けれどきっとこの男には勝てない。何ひとつ勝てない。蛇岐から与えられる愛情だって、あんなにたくさん貰ったはずなのに、それを受け取る相手が私ひとりじゃなかったなんて。胸が痛くて苦しい。たった数日の間でも、こんなにも蛇岐を愛していたのに。  耐えがたい屈辱だった。よりによって初対面の、それも出来ることなら目にも触れたくなかったこの男に、どうして私はこうまでつらく精神を揺さぶられなければならないのか。こんなに煩悶とした思いを抱きながら、それでも獅子雄を打ち負かす言葉ひとつも浮かばない。 「それだけを言いに来たのなら、帰って下さい。久留須くんのことならもう………」  最後まで言い切ってやりたかったのに、そこで言葉は途絶えた。蛇岐をあなたに譲ります、私は身を引きます。何と言うのが正解だろうか。蛇岐を返して、そう言いたいけれど、そもそも蛇岐は蛇岐以外の誰のものでもない。ましてや私のものである筈もない。 「蛇岐のことならもう、何だ?」  獅子雄は私の言葉尻を目敏く拾い上げる。答えられずに歯を喰いしばった。獅子雄は変わらず私を静観し、理解に苦しむ、と苦々しげに呟いた。 「おまえは蛇岐から何を聞いた」  それに私は眉を顰め、首を横に振った。聞くも何も、話しなどする前にあんなことになってしまったのだ。度重なる極度の緊張から、もう何もかも煩わしく投げ出したい気持ちに駆られた。とっくに疲れ果てていた。 「私は何も聞いていません。………何も知らないんです」  言うと獅子雄は何度目かの盛大なため息を吐き、長い脚を組み替えた。その所作ひとつですら気品を漂わせる。 「おまえは何か、勘違いをしていないか」  獅子雄は終始冷静に、努めてゆっくりと、ひとつひとつを私に言い聞かせた。 「俺と蛇岐の関係を、勘違いしていないか」 「勘違い………?」  獅子雄は組んでいた腕を解き、デスクに置いてあったメモ用紙を勝手に取ると私にペンを要求した。私は内ポケットからペンを取り出し、獅子雄に差し出す。受け渡す際に触れた指先は氷のように冷たくて、私は慌てて手を引っ込めた。 「もう一度言うが、おまえたちの関係についての言及は控える。しかし最近の蛇岐は目に余る。俺がわざわざここまで出向いた意味が分かるか」  紙の上を走らせていたペンを休め、獅子雄は真正面からしっかりと私を見据えた。私の胸中はまだ混乱にざわめいて、この男の本心も汲み取れぬまま黙って動かずにいた。獅子雄は再びすらすらとペンを走らせ、そしてその紙を私に差し出した。 「これ以上、仕事に影響が出るのは御免だ。後はおまえたちで解決しろ」  そこには細く整った文字で住所らしきものが書かれていた。その紙から獅子雄へ視線を滑らせる。切れ長の双眸が私を捕らえた。 「道を踏み外すなよ」  獅子雄は静かにそう言い残し、おもむろに立ち上がると私の横をすり抜けひらりと窓から出て行ってしまった。その後ろ姿を無言で見送る。  言い残されたたった一言でさえ、私は未だ理解できずにいた。

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