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第49話
それは、酷く寂れた場所だった。
学校から暫く歩き、大通りから細い路地を抜けて人通りも極端に減ってしまったそこに、蛇岐が暮らしているらしいアパートがあった。獅子雄から受け取ったメモを握り締めてここまでやってきたはいいけれど、蛇岐の自宅の住所だとはっきり明言はされなかった。しかし、そうであろうことに確信めいたものを持っていた。
小さな二階建ての鉄筋コンクリートのアパートに部屋は四つのみで、しかしどれも人の気配は感じられない。階段下にある郵便受けを確認してみても誰の名前もないし、それどころか全ての郵便受けの中に大量のチラシが詰め込まれ、隙間から溢れ返っているほどだ。その大半が善とも悪ともつかない、単純に不愉快なアダルト系のピンクチラシだった。
受け取ったメモには「202」と部屋の番号が記されていて、錆び付いて今にも朽ち果てそうな階段を上がった右手側のドアに、その数字が張り付いていた。きっと、ここに蛇岐がいる。
ありったけの勇気をかき集めて、震える手で小さく扉を叩いた(インターホンが潰れて壊れていたのだ)。返事はない。もう一度叩く。それでも何の応答もなかった。私のなけなしの勇気はみるみるうちに萎んでいき、心は今にもぽきりと折れてしまいそうだった。それでもわずかな望みに賭けドアノブを試しに回してみれば、いとも簡単に扉は開いて、心臓は縮み上がったように痛み思わず息をのんだ。
「…………………」
扉を大きく開くと、むせ返るような血の匂いが一気に押し寄せ、堪らず息を止めて眉を寄せた。最後の夜の蛇岐がフラッシュバックする。部屋に入るのが随分と躊躇われた。このまま帰りたいとさえ持った。暗い部屋だ。明かりが付いていないだけではない。何か陰鬱とした、いやな空気が立ち込めている。それでも何度でも、あるだけの勇気をかき集め、足を引き摺るようにして一歩を踏み入れたときだった。
「何しに来た」
大きな音を立て、扉が勢いよく閉められる。背後からの地を這う声に喉が引くつき、すべての毛穴から一気に冷や汗が噴き出た。思考と感情は混乱に渦巻いた。
蛇岐は暗闇で気配を消して侵入者である私を待ち構え、一瞬の隙をついて背後に回り込み退路を塞いだ。お互い身動きひとつせず、私は冷静さを取り戻そうと必死に呼吸を数えた。蛇岐の息遣いは少しも聞こえない。けれど否定しようのない圧倒的な存在感が全身を総毛だたせ、私の自由を封じ込めた。身体が冷えて、得も言われぬ恐怖に襲われ、ひい、ひい、と隙間風のような声が喉を掠めた。恐れることはない、と自らに言い聞かせる。後ろにいるのは蛇岐だ。私の知っている蛇岐、私を愛してくれた蛇岐。何度も何度も頭の中でそう念じた。
「蛇岐……………」
混乱と恐怖を遠ざけようと、あの頃のように彼の名を呼んだ。やっと紡げたその声は、みっともないほどに震えてか細いものだった。
「蛇岐………」
返事はない。けれど、それでも呼び続けた。振り返ることもできないくせに、あの日々を取り戻すかのように、呼べばあの日々が、信じていた愛情が、私にだけ向けられていたあの愛情が戻ってくると、何故だかそう思えてならなかった。そう思い込まなければ今にも足元から地面が崩れ落ち、そのまま底の見えない暗闇に引きずり込まれてしまう気がした。
「蛇岐、蛇岐………」
何度も何度も呟いた。そうしているうちに、彼が私に与えた愛情じみたものだとか、楽しく食事をした時間や照れ臭そうな微笑みだとか、優しい指先と触れ合わせた素肌だとか、ベッドの中で抱き合って微睡んだ時間や、そうした日々の細々が走馬灯のように駆け巡った。そうしてまた涙は零れて、どうしようもなく胸が締め付けられて、人生の内のたった数日、それまでの私など存在すらしなかったかのように、蛇岐に抱かれたあの日の記憶を馬鹿みたいに大切にしていたのだとついに痛感した。
「蛇岐………!」
涙に濡れた声でもう何度目かの呼びかけに、背後で蛇岐が動くのが分かった。振り返ればそのまま逞しい腕に痛いほど抱き締められて、その広い胸板に顔を押し付けた。
「せっかく逃がしてやったのに、なんで戻って来たんだよ………!」
きっと蛇岐は泣いている。強く抱かれてその顔を確認できなかったけれど、しかしきっとそうに違いない。私たちは抱き合ったまま一頻り泣いた。部屋は血の匂いが充満していた。暗く、深く、湿っていた。とても気持ちのいい場所ではなかった。それでも、今は構わなかった。
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