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第8話 そっけない看板

 少し自分でもびっくりした。なんで、あんなにイヤだったんだろう。綺麗な女性客だったからって、一誠のところで買ってくれた大事な客じゃん。あんなこっそりと建ってる小さなケーキ屋を見つけてくれたんじゃん。  一誠の作るケーキの甘い香りは嫌味な感じがこれっぽっちもしなくて、あの空間にいるだけで幸福感が生まれる。俺にも、幸福感をくれるなんて、すごいことだと思う。  食べたら絶対に美味いんだ。だから、一度でも食べたら、また買いに来てくれる。そしたら、一誠もきっと嬉しくなる。そう思ってたのに、何がそんなに俺は気に食わなかったんだ。嬉しいことのはずなのに。 「……」  看板、描かずに放り出してきた。きっと、イヤな奴って、なんだよ、急にって、思われた。  一誠にそう思われたところを想像した途端、元々殺風景で寒かった部屋がもっと寒く感じられた。あそこは、すごくあったかかったから、この寒さは少ししんどい。うちに帰ってきて、テーブルの上に鍵を置く。その音さえ、やたらと響くほど何もない部屋じゃ、この寒さをしのぐことなんてできそうにない。  ――仕事、お疲れ。  一誠の笑った顔があれば、あったかかったのに。 「っ」  でもさ! でも! だって、あいつの笑顔、なんか、鼻の下伸びてなかったか? 相手が美人だったからって、イチオシのモンブランを買っていったからって、なんか、デレデレ笑ってなかったか? 美人だからって、ヘラヘラしてんじゃねぇって、そう思ったんだ。俺は別にそういう恋愛とか? 女とか? 興味ねぇし。交尾とかしたいわけじゃねぇし! だから、あーあ! 一誠も穏かそうな感じにしておいて、やっぱ、美人大好きなんじゃんって、そう思っただけだし!  だらしない顔、って思っただけだし! 「……」  やっぱ、一誠も恋愛とか、すんだなって、そう思っただけだし。 「はぁ」  ひとつ溜め息を零して、それがベッドに着地するのと同時に自分自身もベッドの上に倒れ込んだ。ボフッと、掛け布団の上に沈んで、埋もれるようにしながら、目を閉じる。 「……」  ああいうのが、好きなのかな。一誠は、ヒラヒラしたスカートが似合うような、美人がやっぱ好きなのかな。  綺麗で、長い髪は風に揺れるとサラサラしてて、そんで、きっと一誠の店に負けないくらい甘い香りがする。睫毛も長くて。女の人だから、化粧、してたな。細かった。白かった。  想像したら、胸の辺りがぎゅっときつくなったような錯覚に襲われた。人じゃないから、そこに心臓なんてないのに、心臓の辺りがぎゅっと締め付けられた。そんなの今まで感じたことのない感覚だからびっくりして、布団の中で、身体を小さく丸めた。丸くなりながら、あの女性客が座ってモンブランを食べてて、その隣に、一誠がいるところを想像して、もっと身体を小さく丸めた。  一誠のお店に行くのは一週間に一回。看板を描くために寄っていた。毎週月曜日。だから、この前、途中で帰るって言ってた後、次に来るのは、今日、一週間後の月曜日  看板描いて、お礼に、甘いココアを一杯もらって、そんで少しだけ話をして、帰るんだ。話、にはあんまなってないかもしれないけど。いつも、一誠があれこれ話して、俺はそれに返事をするだけ。人のために作られたくせに、人が嫌いで、人が怖い。でも一誠は怖くないから。嫌いじゃないから。  そう! 嫌いじゃないんだ。  一緒にいて楽しかった。向こうは……楽しいのかどうかわからないけど。楽しいか? って、訊いたら、優しい顔で笑ってた。  いっつも笑ってて、そんで、あの美人のお客がいた時もそうやって笑ってたから、なんか、その笑顔がとてつもなくだらしなく見えて、それで帰ったんだ。  鼻の下伸ばしやがってって、そう思って呆れて帰っただけ。だから、別に看板描きたくなくなったわけじゃないし。あそこが嫌いになったわけじゃない。  だって、そうだろ? 接客業だからって、女性客にばっかヘラヘラしてるなよって思うだろ? 他の男の客に対しての対応を見たわけじゃないけどさ。  でも、看板は、書くよ。  約束したし。俺の絵を飾ってくれてる貴重なファンだし。 「……ぁ」  一週間、まっさらな看板が出てるのかなって、思った。俺は、この一週間で、自分のイライラの中身を色々考えてたよ。  考えた結果出た答えは、嬉しかったから、だった。  嬉しかったんだ。ものすごく嬉しくて、もう俺にできることならなんでもしてあげたいって思ったんだ。丁寧に、丁寧に自分が描いたものをようやく本当の意味で大事に見てくれた人だったから。俺が望んでいた受け取り方をしてくれた人だから、俺もそんな一誠にお礼がしたいって思った。ケーキ屋の看板なら百枚でも二百枚でも描いてあげるよって。俺にはそのくらいしかできそうにないからさ。  得意なものって言ったら、絵くらい。料理とかもしないし、ケーキを作れる一誠に手料理でお返しっていうのはなかなか勇気がいる。何かプレゼントをするって言っても遠慮される気がした。だから、絵で返そうって。  俺の絵を気に入ってくれたことがたまらなく嬉しくて。その人のために何かしたいって思ったから。だから、一誠も、あのお客さんに対してそうなのかな。自分が感じてる嬉しさを、あのお客さんに持っているのかなって思ったんだ。そしたら急に胸の辺りがぎゅっと締め付けられた。  本当にすごく嬉しくて、たまらなかったから。  別に、一誠のことが嫌いに……なったわけじゃ。 「……」  看板が出ていた。黒板がちょこっとだけ歩道のところに顔を覗かせている。一誠は絵がめちゃくちゃ下手だけど何を描いてるんだろう、ってことも、この一週間で色々想像してた。ドーナッツならふたつの円を描けばまだどうにかなるし。マカロンならそれこそ丸ひとつで事足りる。どんなお菓子をそこに描いてるんだろうって。 『甘いココア、あります』  ただ、その一文が、深緑色の黒板に白いチョークで書かれてた。絵じゃなくて文字で。とても綺麗な文字。これが一誠の文字なんだ。しっかり跳ねて曲がって止まって。真っ直ぐさが心地良い、一誠らしい字。 「っぷ」  これじゃ、お客来ないじゃん。ココアありますって、そんな、いくら達筆だってさ。これじゃ、まるで俺だけを呼んでいる看板じゃん。  つい笑ってしまった。一番短い文章なのに。ぎゅうぎゅうに気持ちが込められた文字。その文字に手が自然と伸びた。 「トウ!」  文字をなぞろうとした手を骨っぽくて大きくて温かい手が掴んだ。  びっくりした。 「ぇ」  一誠が息を切らしながら、駆け寄ってきて、俺の手首を捕まえて、そんで。 「ぇ、一誠?」 「よかった……」 「は?」  なんで? この看板は店から少し離れたところに置いてあった。歩道を行く通行人に「ここにケーキ屋がありますよ」って知らせるためのもの。なのに、俺が看板の文字を見ている間に店飛び出して、走って、そして捕まえにやってきた。 「もう、来ないかと思った」 「……」 「はぁ……」  しゃがみこんで、地面に向けて溜め息をついてる。  どんだけ、必死に走ってきたんだよ。店から看板のところまで十メートルちょいあるのに、どんだけ足が速いんだよ。 「っぷ」  どんだけ、俺がここに来るかどうか見てたんだよ。 「笑うなよ。トウ」  こんな早く来れるようにするためには、店のカウンターの中からずっと見てなくちゃならない。ずっと見てて、そんで見かけた瞬間飛び出さないと無理だ。  どんだけ、暇だったんだよって、そう思ったら、なんか笑ってしまった。

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