10 / 50

第10話 角の生えたスイートポテト

「どうして、絵を始めたの?」  今週はスイートポテトの三個セットがイチオシなんだってさ。月曜日、一誠の店に来て看板を描くのが定番になった。時間はまちまち。俺が夜勤の時は、出勤前に来て描いてる。日勤の時は仕事の後に来て、描いて、そんで、ごちそうしてもらったココアを飲み終わってもずっと話してる。  ケーキを買うのを待っている人や、ここで食べて帰りたい人のためにって置いてあるテーブルと椅子のセットがふたつあって、俺は、それの店奥のほうに座ってた。毎週月曜だけ、ここは俺の指定席。もちろん、お客さんが来て座りたそうにしてたら、すぐにどくつもり。  ただ、今のところ、お客さんが行列を作って、ケーキを買うのを待っているっていう事態に遭遇したことはない。ホント、こんな暇こいてて大丈夫なのかよって思うけど。でも、だからってたくさん来られると、ちょっと……とも思ってみたりして。  もちろん、たくさんお客が来ますようにって、ケーキとかお菓子をできるだけ美味そうに描いてるけどさ。 「絵を始めたの理由? ……指先を上手く使うための練習」 「絵で?」  カウンターの中から一誠が目を丸くして、肘に顎乗っけてだらけさせてた体をパッと起こした。 「そ。神経系みたいなのがちゃんと指先まで機能するように。あと、指先の触覚をしっかり覚えるために」 「……」 「それで絵を始めたんだ。そしたら、楽しくて。絵を描いてると一日があっという間だった。毎日毎日描いてた。もっと上手になりたくてさ」  美術館にも通った。毎週、時間があれば一日中眺めてた。  知ってる? 絵ってさ、テレビや写真でも細部まで見れるけど、生で、直に目にするのとじゃ全然違うんだ。すごいんだよ。最初、美術館で絵を見た時、感動して、その場からしばらく動けなかったんだ。目の前にしたら見ることのできる筆の毛先でさえすっごくってさ。目でずっと筆の動きを追ってた。もう完成した絵なのに、筆がどうやって動いたのかわかる気がしたんだ。どんな力加減で、どんな速さで、そこを筆が走ったのか、じっと見て、見入って、そしたら、指先がじんわり熱くなったような気がした。  ぎゅっと手を握り締めてさ。  何度も、何度も指先の痺れを実感して、目に焼きつけまくって。きっと、周りにいた人はビビッたと思う。だって、ずっと、その場を動かず、手をグーパーグーパーって繰り返し動かしてる奴なんて、変だろ?  家に帰ってからはもう夢中になって、目に焼き付けた筆の真似してた。こうだった。こんなふうだった。って、ずっと追いかけて、絵を描いて。それをずっと繰り返して、そんで、ある日――それを評価してくれる人が現れたんだ。 「まぁ、話は、ぱぁ、になったけど」 「……」 「もう、いいんだ。そういうの。あ、あれだから。別に卑屈になってるとかじゃない。筆は捨てたけど、でも、今は筆で描きたくない」  このチョークがいい。今は、このチョークで、のんびり、今日はなんのお菓子を描こうかって、鼻歌混じりに描いてたい。最初の頃みたいに。  ――三枝さん! 見て! 空の色!  ただ水色の絵の具が綺麗で、それを画用紙一面に塗りたくるのが楽しくて仕方なかった。いつの間にか、どこかで、絵を描くってことが変わっちゃったんだ。あんなに根詰めて、編集者の指示した日にちまでにって切羽詰った顔して、夜通し、手がバカになりそうなくらいに必死になって絵を苦しそうに生み出すんじゃなくて、もっと、楽しかった時みたいに描きたい。  指を筆代わりにして空の色を塗っていた、指先でちょんちょんって、緑色を重ねて、山の絵を描いた。すごく楽しかったっけ。  だから、今は、チョークを握り締めて、一誠と話しながら美味そうなケーキを描いてたい。 「はい。トウ、どうぞ」 「? 何?」  いきなりカウンターの中にいる一誠が手渡してきたのは、チョコレート。花の形になった茶色の、ココアと同じ色をしたチョコ。まだ食べていないのに、もうどんな味がするのかわかってしまうほど、濃く甘い香りが立ち込める。 「一誠、俺、食べるのは」 「それはすぐに口の中で溶けるから。秋だし、コスモスの形にしてみたんだ。今度、ガトーショコラを秋風にアレンジする時に使おうかなって。それがいっぱい乗っかってさ。満開のコスモスみたいに、ほら、あの絵みたいに」  そう言って、一誠が額に入った俺の絵に視線を向ける。その絵を見て、インスピレーションが湧いたとか、そんなことを言う。そんなたいそうな絵じゃないのに。額に入れてあるのだって、俺にしてみたらこそばゆくてたまらないのに。 「あ、美味い……」 「よかった。すぐに口の中で溶けるだろ?」  うん。本当にすぐに溶けた。だから、口に入れた瞬間、舌の上で蕩けて、そのまま喉に流れて、俺の内側が一瞬でチョコに染まる感じ。食べるとも飲むとも違う。染み込むみたいな甘さ。それに少し濃いから? 染み込んだ喉奥がじんわりと熱っぽくなるっていうか。とにかく、うん……美味い。 「ねぇ、トウ」 「んー?」 「デート、しないか?」 「は? はぁっ? はっ、なっ、ぁっ、何言って!」 「っていうのは冗談だけど」  冗談なのかよ。びっくりした。何言ってんだって思って、ほら、チョークがはみ出しちゃったじゃんか。スイートポテトに角が生えちまった。黒板って、消しても少しだけチョークの粉が残るんだよ。失敗したって丸見えだ。  眉をよせて、からかった一誠にムスッとした顔をして見せた。でも、一誠はそんなのいつもの事だってばかりにニコッと笑って、へこたれるでも、気にするでもなく、また頬杖をついてる。 「明日定休日なんだ」 「え? そうなの?」 「知らなかった?」  知らなかった。そっか、そしたら、俺、運がよかったんだ。あの、むくれて帰った日、翌日に謝りに来てたら、店閉まってたんだ。もしもそれを見たら、俺は、拒絶されたみたいに感じて、もう二度と来なかった。一週間後にここを訪れた時も、それが火曜だったら、やっぱり拒否されてるみたいに受け取って、そのまま帰ってた。  よかった。月曜に来て。じゃなかったら、俺はもう二度と一誠のとこに来れなかった。 「!」  って、なんか、ものすごく、一誠とまたこうして話せることを喜んでるみたいじゃんか。いや……まぁ……喜んではいるんだけど、さ。でも、別に。 「トウ」 「うわぁ!」  ただ、名前を呼ばれただけなのに、今、一誠のことを考えてた俺は、一誠の声がしたことにびっくりして、飛び上がった。俺を驚かした犯人は何がおかしいんだか、頬杖をついたまんま、接客業をするにはけしからん体勢で呑気に笑っている。そんな一誠に、やっぱり俺はムスッとした顔しか返せなくて。 「で、明日、定休日で休みだからさ」 「……」 「美術館、案内してくれない? はい。だから、スマホ出して」 「……はぁ?」  一誠がニコッと笑って、手を差し出す。そんな一誠の笑顔とは正反対のおかしな顔で、そんな怒り口調の返事をしながら、頬がなんでかとても熱かった。  スマホに、一誠の連絡先が登録されてる。職場との連絡くらいでしか使ったことのないスマホに、人の名前が登録された。  ――明日、十時の美術館のある駅ね。  何? 何言ってんだ? 一誠の奴。美術館って、そういうの全然わからないだろ。ケーキ展とかならわかるけど、美術なんて興味あんのかよ。  ――なかったから、トウに案内して欲しいんじゃん。  一誠は呑気にそんな答えを返して、そして、「ケーキ展」あるのなら行ってみたいなぁって呟いた。  一誠と? 美術館に? 「……何、考えてたんだ、あいつ」  変な奴。最初からそう思ってたけど、やっぱりものすごく変な奴だ。誰かと出かけるなんて、初めて。誰かと並んで歩くのも、実は、初めて。三枝さんと一緒に暮していた頃は、まだ俺が未完成のセクサノイドだったこともあって、一日のほとんどが屋敷の中だったから。 「! っていうか! 明日じゃんか!」  そうだ。月曜の次が火曜で、その火曜が定休日なんだから、明日、一誠と美術館に行くんじゃん。 「マジかよっ!」  洋服なんて、あんまり気にしたことないんだけど。何着てきゃいいんだよ。わからないよ。そんなん。Tシャツじゃラフすぎる? えっと、美術館に通ってた時は……普通にその辺にある服着てたんだ。お洒落とか全然興味がないから。 「……何、着てこう」  一誠は……一誠の私服って、どんななんだろう。 「……」  ちょっと想像したら、また頬が熱くなってくる。 「!」  そして、ふと、顔を上げたら、夜で真っ暗な窓の中に自分が写っていた。頬を両手で押さえて、浮かれてそうな自分がいて、なんか急に恥ずかしかった。

ともだちにシェアしよう!