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第11話 風が触れる。風が踊る。
ないはずの心臓がドキドキしてた。頭だってパニックだった。
「天気良くてよかった」
「……」
だって、店の外で一誠と会うなんて、ちょっとどころじゃなく、ビビる。
「でも天気は、美術館の中に入っちゃうからあんまり関係ないけどさ」
ケーキ屋してない時の一誠ってこんな感じなんだ。黒いパンツだから? 足が長くない? グレーの薄手のニットとか、なんか、大人っぽくない? 腕まくりするんだったら、半袖着てこいよ。
「道、迷わなかった? って、迷うわけないか。トウはここに通ってたんだもんな。俺、迷っちゃってさ。電車の乗り継ぎわかんなくて」
あ、腕時計してる。店では腕に装飾品なんてつけてないけど、そっかこういう外ではつけてるんだ。あぁ、もしかして、腕時計をこれ見よがしで見せたくて、腕まくりとか? 良し悪しなんてわからないけど、でも、その時計、高そうだ。だから、腕まくりしてんだろ? さりげなぁく、アピール?
なんて、ウソ。なんか、なんていったらいいんだろう。いつもと違うから、ドキドキして、そのないはずの鼓動に慌てふためいて、いらない、ちっともそんなこと思ってもいない、こういう悪態ばっかつきそうだから、口をつぐんだ。
「じゃ、行こうか。トウ画伯」
「はっ! はぁっ? 何言って」
隣を歩く、変なことを口走る変人をチラッと見上げた。風に髪が優しげに揺れてる。店の中では、風はそよがないから。ケーキ屋の中じゃ、一誠はいつもカウンターの中だから、隣には並ばない。いつだって向かい合わせ。だから一誠のいる右側がちょっとだけ緊張している感じ。何かあったらすぐにでも反応できるようにって身構えるように、全神経が右に集まってる。
「ほらほら、案内して」
でも、一誠がバカなことを言って、緊張している俺をからかうから、結局、方向音痴とか、いい年して迷子なんて恥ずかしいとか、文句を零し続けながら美術館まで歩いた。
本当はさ。
「あ、なんか、建物からして、芸術的なものを感じる」
本当はそんなこと言いたいんじゃないんだ。本当は。
「トウ」
「!」
本当は。
「今日の格好、なんか、ピアノの発表会でもこれからある子どもみたい」
「! うっ、うるせぇよっ!」
カッコいいって言いたかったけど、言えなくて、クスクス笑って俺をからかう一誠に怒った顔をしか見せられなかった。いつもと変わらない、ケーキ屋で看板を描いてる時と何も変わらない自分しか見せられなかった。
美術館の中は息を飲む音さえ響きそうなほど静かだ。女の人なんて、そっと、そーっと、慎重に歩いている。ヒールのカツカツ鳴る音でさえ、ここじゃ大音響で響き渡る楽器みたいだ。
入った瞬間、音が消えたように静かで、静かすぎて、空気ばかりがぎゅうぎゅうに詰まっているような感じがする。それを目閉じて、胸いっぱいに吸い込んだ。
「トウ」
一誠はこっそりと、内緒話をするみたいに、前にかがんで、俺の近くで話しかける。
「どの絵? トウが夢中になって見てたっていうのは」
どれも、なんだけど。でも、これかな。少し先を歩いて、数枚小さな絵を飛ばして、辿りついた大きな空間。手なんて届くはずもない高い天井に真っ白な壁。そして、そこにある大きな大きな絵。
「……これ」
これが一番、長い時間見つめてた。花に光が降り注ぐ絵。
「へぇ……」
光がさ、すごく綺麗に差し込んでて、ここに立ってると自分にもその陽が降り注いでいるみたいに感じられて、あったかくて、気持ち良かったんだ。でもさ、これ、近くで見ると、乱雑に思えるほどけっこう色がごちゃごちゃに乗せてあって、何の絵なのかなんてわからない。一歩二歩、三歩、もっと離れてから見上げると、そこはちゃんと光があるのに。近すぎるとわからないんだ。それが面白くて、何度も近づいて、遠のいて、また近づいてを繰り返してた。それに、この筆の置き方とかもさ。
「よくわからないけど、綺麗だな」
一誠のこういうとこ。
「……うん。俺も、綺麗だと思った」
シンプルでさ、周りとかの色んな事全部すっ飛ばして、素直に受け取るとこ、すごく、いいなぁって思った。
音ひとつ立てちゃいけないような、静寂の中を一誠は窮屈に思うこともなく、すんなりとそこに溶け込んでいた。外に出るともう夕暮れで、何時間ぐらいいたんだろう。腕時計持ってるくせに、一誠も時間気にしなかったのかよ。せっかくの定休日を美術館ひとつで丸つぶれになんてして。
「美術館なんて初めて来たよ。俺には芸術的なことってちっともわからないけど、でも、なんか、ちょっとケーキに使えそうなアイデアとか、後々浮かんだりしてとか思ったりして」
大きな背中を逸らして、長い手を空にかざすと、一誠の周りに急に風でも巻き起こりそうな気がする。一誠の全ての仕草が綺麗だった。カウンターの中じゃそんなにわからなかったけど、身のこなしが洗練されてるっつうか。秀でた人って、一目瞭然っていうか。
最初、え? アルファ? ベータの間違いだろ? って、一誠のこと思ったけど、勘違いだった。一誠は、ほら、こうして見たら、ちゃんとアルファに見える。
「でも、トウが一番好きだって言ってたあの絵は感動したかな」
アルファ以外の何者でもない。人の上に立てる人だ。秀でたものをたくさん持った人。
「ねぇ、トウ、この後さ、どっかで」
俺とは、なんか、色々違いすぎる。アルファって、「差」って、こういうことなんだ。
「トウ?」
「あ、あんま」
「?」
そりゃあったかいだろ。
「あんま、近くに来ないほうがいいよ」
「トウ?」
「だって」
俺はニセモノだからさ。本物のアルファの一誠は俺の隣にいたら、バカにされちまう。周りの人にだってきっと一誠がアルファっていうのは一目見ただけでわかるはずだ。こんなにカッコいいんだから。そんなアルファの隣に俺なんかがいたら。
「だって、俺は」
「ねぇ、トウ。楽しかった?」
「……は?」
「トウ、あの陽差しの絵もだけど、他の絵も久しぶりに来たんだろ? すっごく目を輝かせて見てた。深呼吸して、もう呼吸から絵画の何かを吸収したいみたいにしてた」
そう、だった? 俺は全然、気がついてなかった。ただ、あの無音が心地良くて。
「指、グーパーしてた」
「!」
「また、描いてみたくなった?」
でも、俺はもう。筆は、もう、ないんだ。
「も、もう、描いてるじゃんか」
「それじゃなくて。チョークで看板に描くんじゃなくてさ」
一誠の髪が風に揺れた。美術館の中は空気さえ動かないような静けさだった。今、外に出たら、夕方で風が強くなってきて、足元に枯葉が忙しなく動き回ってる。くるくるって、一誠の後ろで踊って駆けて、その髪をいたずらに揺らして。
「たとえば、何か描きたいものとか、こんなん描きたいなぁとか」
「……」
描きたい、もの? 今、俺の、描きたいものは――。
「何か、あった?」
今、思い浮かんだ、描きたいものは――。
「!」
風に踊った一誠の髪。楽しそうに、秋風の中で揺れて、夕陽が当たって、あったかそうな色に染まってる。一誠はその手で風に揺れる前髪をかき上げると、俺を見て、笑っている。俺は、今、そんな一誠を見て、指が。
「トウ?」
「ごめん。俺、急用があったんだ」
指が。
「トウ!」
違う。もう筆はないし、人は怖くて嫌いだから描きたくなんかない。違う。指が疼いてなんていない。
「トウッ!」
描いてみたいものなんて、ない。
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