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第12話 スイッチ

「きゃああ!」 「ごっ、ごめんなさいっ」  全速力で人混みの中を走るのはちょっと怖くて、人が怖くて、俯きがちに走ってた。そのせいで人にぶつかって、また怖くなって、慌てて謝って、また逃げる。  一誠は怖くないのに? 違う。怖いよ。今は、なんか怖い。  俺にひどいことをするから? 違う。されてない。一誠は優しくて、良い人だ。だからっ。  じゃあ、もしかして? 好――。 「っ」  違うってば。ない。ないないない。  俺は人は描かないし、そもそも、もう筆使って描くような絵は描かない。描きたくないんだ。自分を認めて欲しいとか、評価して欲しいとか、褒められたいとか、そんなのひとつもない。ただ楽しく絵を描いてたい。素直にやりたいんだ。  ――何か描きたいものとか。  ない。そんなの、ないよ。  逃げなくちゃ。早く逃げないと。走って、急いで。  呼吸が苦しい。急いでうちに帰らないと。夕陽に照らされた一誠はオレンジ色に染まってて、綺麗で、あったかくて、目の前にしてたら、あったまりたいって手を伸ばしそうになるから、急いで逃げないといけない。  俺の部屋は寒いから、一誠を染めたオレンジ色はとても気持ち良さそうに見えたんだ。触れてみたくなったんだ。  だから、逃げないと。 「っ、はぁっ、はぁっ」  部屋に辿り着くなり、ドアを雑に閉めた。朝出かけたっきり、寒いから一日締めきったままで淀んでいた空気が、いきなり響いた乱暴な音にぎょっとしているような気がする。  走りすぎて乱れた呼吸を口の中に閉じ込めて、溢れないように口元を手の甲で押さえて、無理やり飲み干した。  違うから。そういうのじゃないから。  殺風景な自分の部屋の窓。さっきまでは夕暮れでオレンジ色もあったはずの空はもう真っ暗で、薄っすらと端に青色が残っている程度。その窓に、自分が映っている。走って帰って来たせいで、髪なんてボサボサで、頬も真っ赤。  服の裾で自分のうなじを擦った。そして、その部分を自分の鼻のところへと持っていく。  スン、って鼻を鳴らした音が部屋に響いた。  大丈夫。きっと、大丈夫。何も、香ってない。  ブブブブ 「うわぁぁっ!」  ポケットの中に突っ込んであったスマホが、一年に一回あるかないかの振動音を立てるから、今度は俺がぎょっとして、そして、メールなのに急かされているような気がして、慌てて画面にタップした。  大丈夫? なにか、あった? 急用、なんとなかった?  一誠からのメールだ。俺が、いきなり走ってその場を立ち去ったから心配してる。大丈夫? って、逃げた俺のことを気遣ってくれる。今、一誠に心配されてるんだ。俺。 『トウ、人工的に作ったヒートにはね、スイッチがあるんだ』  俺のヒートは訪れないよ、三枝さん。  だって。 『スイッチ? どこかにボタンがくっついてるの?』 『アハハハ。そういうスイッチじゃないんだ、君のここの中にある。君の中にヒートを起こすスイッチが入っているんだ』 「……ないよ……そんなスイッチ、俺には、ないってば」  その場でずるずると座り込んで自分の膝を抱えた。顔を隠すように丸まって、そして、スンと鼻を鳴らす。匂いが、甘い、オメガがヒート状態になった時にだけ発生する甘い蜜香(みつか)がしてないか、探して、そして、そんな香りがするわけがないことを確かめた。  ――ごめん。帰っちゃって。急用、大丈夫になったよ。  うん。大丈夫。文字を打ち終わって送信してから、もう一度自分のうなじを裾で擦って、匂いを確かめる。  ――平気?  うん。大丈夫。甘い香りなんてしない。へっちゃらだ。  ――なんともないよ。全然、平気。  本当に平気だから、そう返事をして、もう一回鼻先を自分の腕の中に埋めて、熱を持ってないかを確かめた。  俺が壊れて停止しても、何があっても、どんなことが起きても、スイッチは入らないよ、三枝さん。 「……はぁ、すみません。それじゃあ俺はこれで」  でも、今日はこのまま壊れるかもしれない。今日の夜勤はものすごかった。昨日は美術館で一誠とゆっくりしていたのに、その翌日は「ウソだろ」って呟きたくなるくらいの商品リストに忙殺されかけた。セクサノイドは頑丈だけど、これは、マジかよってレベル。なんだろ。季節の変わり目は商品入れ替えもあるから、棚はぎゅうぎゅう。買うほうも秋冬用に色々買い揃えたいのか、注文が殺到で。物をあまり持たない俺にはシーズン毎に何かを買うっていうことがないからわからないけど、でも、今日は本当にひどい忙しさだった。  いつもの何倍くらいあったんだろう。もちろん朝までになんて終わらなくて、日勤の人を巻き込んでどうにか終わらせた。午前中で発送まで持っていかないといけない。時間との戦いだ。そして、ようやく全ての品物をピックアップし終わったのが朝の九時すぎだった。 「お先に、失礼します」  たまにこういうバカみたいに忙しい日があるんだよな。 「……雨、降りそ」  そんなんもわかんないくらい忙しかった。一昨日はあんなに晴れて綺麗な夕焼け空だったくせに、今朝は分厚い灰色の雲がびっしり敷き詰められてて何も見えない。今にも雨が降り出しそう。天気予報はどうなってたんだろ。  あんまり寝てないんだ。昨日は美術館の後、寝付けなくて、夜中に何度も寝返りを打ってた。そんな寝てない影響で、ヘロヘロで、本当にしんどかった。  頭がボーっとしてるだけでも帰るのしんどいのに、これで雨にも降られたら、笑える位に最悪だ。 「……しんど」  つい口に出してしまうくらいにはしんどい。 「……」  だから甘いの欲しいなぁって、思った。あのココアが飲みたい。甘いけど、甘いだけじゃなくて、カカオの風味がするあったかい飲み物でゆっくり深呼吸したい。  でも、一誠のとこ寄ってから帰ったら、雨に降られるかな。  ココアなんて、前は飲んだことなかったのに、毎週毎週、一誠のところで飲んでたから、習慣になっちゃったのかもしれない。  もう時間は十時になる。一誠の店もオープンしてるはず。だから、ケーキ作りの邪魔にはならない。一杯だけなら、そんなに迷惑にだってならないだろうか。でも、美術館の後、あんなふうに帰ったのに? メールは来てたし、心配してくれたし、怒ってはいないみたいだけど。  行ったら、ダメ、かな。ココア飲んだら帰るし。  あぁ、本当に頭が回ってない。  スマホで連絡してみたら? あ、でも、仕事中に電話はダメか。邪魔になる。別に月曜以外は来ちゃダメなんて言われてない。お金払って、お客さんとして飲みに行く分にはいいよね。そだ。美術館、あんなふうに置いてけぼりにしたことも謝らないといけないだろ。心配かけたんだから。謝って、ココアの代金払えば大丈夫だろ。 「……」  ただ、行きたい。  そうだ。  雨が降る前に、一誠のケーキ屋に辿り着いたら、そのまま挨拶してみよう。一昨日はごめんって言って謝って、ココアを一杯頼もう。  もしも雨が降り出したら、びしょ濡れじゃケーキ屋は入れないしさ。そしたら諦めもつく。今日は、一誠のとこに行くべき日じゃなかったんだって。  寝不足とろくに休憩も取らずに仕事をしていた頭は、どこかボーっとしていてちゃんと考える力なんて残ってなくて。お天気に判断を委ねた。  雨に追い返されるか、ココアが飲めるか、俺は決められないから、空に判断してもらおうって。 『スイッチはね、ここだよ、トウ』  空は、ココアを飲んでもいいって、言ってくれた。ケーキ屋に辿り着いたよ。 『君の中にある』  店の中には、いつもの、俺の見慣れた一誠がいる。笑って、いた。 『君が誰かを好きになる、それがスイッチだよ』  俺は、それをあの人から聞いた時からずっと、ずっと思っていた。じゃあ、俺にはヒートは一生来ない、ってさ。  だって、誰も好きにならない。人は怖くて嫌いだから、一生、求めることはない。そう思ったんだ。 『その人のことを熱烈に求める。それが最高の』  空はココアを飲んでもいいって言ってくれたのに、店の中にはお客さんがいた。綺麗な人。クリームみたいにヒラヒラキラキラとしたスカートがよく似合う美人。あの人を俺は知っている。この脳のけっこう浅いところにあの女の人の面影を記憶としてしまっている。  入れないじゃん。  あの時もそうだった。すごくイヤな気持ちになった。そして、やっぱり今もすごく嫌な気分がする。 「!」  ほら、一誠と目が合ったら、すごく、胸のところが苦しくて、息ができなくなった。

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